【証言あの時】前伊達市長・仁志田昇司氏 地域実態分かってない

 
仁志田昇司前伊達市長

 「(住民から)非難されたが、それには理由があった」。前伊達市長の仁志田昇司は自宅で資料を手に取り、東京電力福島第1原発事故に伴い伊達市に特定避難勧奨地点が指定された背景を語り始めた。

 2011(平成23)年3月11日。東日本大震災が発生した。伊達市に浜通りからの避難者を受け入れながらも「原発は大変なことになっているな」と、どこか人ごとのように感じていた。

 3月23日、政府が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による放射性物質の拡散予測を発表した。放射性物質は原発から北西の方向へと、つまり伊達市に向かって広がっていた。仁志田の危機感は一変した。

 4月22日に、年間被ばく線量が20ミリシーベルトに達する恐れがあるとして、伊達市と隣接する飯舘村が「計画的避難区域」に指定された。市内にも放射線量の高い場所があると公表されていたため、仁志田は「政府から何らかの指示が来るだろう」と思ったが、政府からの連絡は全くなかったという。

 そこで比較的線量の高い地域で住民の希望を取り、市内の別の場所への避難を進める市独自の支援策を始めようとした。このころ仁志田は、飯舘村のように避難に強制力のある「計画的避難」が伊達市で行われれば、対象地域が大きな打撃を受けると考えていた。

 仁志田の手元の資料によると、6月9日に政府担当者が伊達市に来て、新たな避難勧奨制度「選択的避難」を検討したいと伝えた。仁志田は説明を聞く中で、強制力のない緩やかな制度である点に同意できたが、指定が世帯単位で行われることに異議を唱えた。

 「地域の実態を分かっていない。集落単位での指定が必要だ」と求めたが、政府は聞き入れなかった。仁志田は、線量が高い地域の住民の心情を考えれば議論に時間をかけることはできないと判断。「地点を多く認めてもらえば、それが面になる」と発想を切り替え、政府との調整に臨んだ。

 仁志田が憂慮した通り世帯ごとの指定に不満の声が上がった。「政府とけんかするような協議を経て合意した内容だ。組織(伊達市)としても、実は不満だったとは(住民の前で)言えない」として、住民の思いを受け止めるしかなかったという。
 特定避難勧奨地点として正式決定した制度は案の定、地域に亀裂を生じさせた。仁志田はその後、分断のもとは高い放射線量にあると考え、県内でも先駆的な取り組みとして除染を推進していった。

 仁志田は「政府は地域のコミュニティーを維持することよりも『先に指定した計画的避難区域とは違う制度にしなければならない』ということを考え、制度設計したと思う」と振り返った。(文中敬称略)

 【仁志田昇司前伊達市長インタビュー】

 前伊達市長の仁志田昇司氏(76)に、伊達市に特定避難勧奨地点が指定された経緯などについて聞いた。

 いざ市独自の支援しようとしたら政府から話きた

 ―東日本大震災の発生時、何をしていたのか。
 「ちょうど市長室で職員から(施策などの)説明を受けていた。私は宮城県沖地震(1978年)を経験していたので『これは大きいな』と思った。直ちに災害対策本部を立ち上げた。東京電力福島第1原発がおかしくなったというのは、テレビで見ていた。『大変だね』というか、人ごとみたいな感じでいた」

 ―記録によると、2011年3月17日に、県の測定チームが伊達市役所で毎時7.35マイクロシーベルトの空間放射線量を計測しているが。
 「市内の被害を確認したり浜通りの被災者を受け入れたりして忙しかった。測っていると分かったのはずっと後のこと。放射能で大変だと思ったのは、3月23日にテレビで緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の結果が発表された時。『われわれも被ばくしている。何とかしなければ』と思った」
 「どこの誰に聞いても対策を教えてくれないからチェルノブイリ原発事故の記録を読み、除染という言葉を知った。3月末だか4月初めに県が首長を集めた。その時『除染をしなければ駄目だ』と言ったが、誰も分からなかった」

 ―市内に年間被ばく線量が20ミリシーベルトに達する恐れのある地点があることが分かったのはいつか。
 「4月11日ごろだったと思うが、(当時の)枝野幸男官房長官がテレビで、飯舘村に年間20ミリシーベルトを超える高線量の地域があって、計画的避難区域というものを指定すると言っていた。その時に『伊達市にも同程度の高線量地域がある』と発言した。見ていて本当にびっくりした」
 「枝野さんが言っていたのは(伊達市)霊山町石田の宝司沢という地区だった。何か国から(指示が)来るかと思っていたが、さっぱり来なかった。それで宝司沢地区だけでも何とかしなければと考えた」

 ―市独自の支援策か。
 「子どもに対する親の不安は大きかった。当時考えることができた対策は避難しかなかった。市単独でやるので他の自治体に頼むわけにはいかず、市内の保原や梁川に放射線量が低いところがあるから、希望者をそこの公営住宅に入れることにしようと。いざやろうとしたころ、特定避難勧奨地点の話が(政府から)来た」
 「飯舘村の計画的避難区域の指定は強制力のある避難指示だった。菅野(典雄飯舘村長)さんは特別養護老人ホームなどを例外として避難させない方針だった。あまり遠くに避難してはいけないという考えも持っており、(菅野村長から伊達市への村民避難の)打診を受け、『(伊達市)伏黒の小学校を使っていいですよ』と答えた。そういうことなどもあって、強制というか問答無用の避難はうまくいかないと考えていた」

 「実は制度に不満あった」とは言えなかった

 ―政府から避難の話はどのように打診されたか。
 「記録を見ると、6月9日に、政府の担当者が新たな避難勧奨制度の『選択的避難』を検討していると伝えてきた。具体的な協議は(政府が特定避難勧奨地点の方針を正式発表した6月16日より後の)6月20日から始まった」
 「計画的避難区域とは違うものをつくろうということだった。最初から避難は強制ではないというところは良かったが、『避難した方がいいですよ、そのためには応援しますよ』という単位が地点、つまり一軒一軒だった」

 ―その時、どのように感じたのか。
 「地域の実態、コミュニティーの現状を全く理解していないと思った。例えば、隣は放射線量が高いから指定されたけど、うちは指定されない、ということが当然出てくる。一軒一軒やるということ自体が根源的な問題だと考えていた」
 「政府はさっぱり地域の実情を分かっていないが、制度自体を曲げようとしなかった。自分たちの考えた制度が現実に合うかどうかということよりも、計画的避難区域と比べた場合、どういう法律上の違いがあるか、そういう点に論点があったのではないかと直感的に思った」

 ―どのように対応していったか。
 「放射能との闘いは時間との闘いでもあった。3~4カ月も議論をできないから、1週間ぐらいで決めなければならない。そうなると、妥協というか例外を認めてもらうぐらいしかなかった。地点を多数認めてもらい、地点を広げれば面になるということに切り替えた」
 「そうはいっても無制限ではない。(政府と)大げんかというか大議論をした。線量が低くても子どもがいるとか、高い線量の場所を通らないと移動できないとか。いろんな理屈をつけてかなり認めてもらった。とにかく1軒ずつ議論して決めた。そこで小国地区などで説明会をやることになった」

 ―住民の反応はどのようなものだったのか。
 「政府が主催で、市はオブザーバー(傍聴者)だった。しかし、市民に説明するのに市が政府の言っていることを黙って聞いているわけにはいかない。納得はいかなかったが、(政府と)議論して決めたのだから『こういう方針でまいります』と(説明した)。当然、市民から不満の声や意見が出た」
 「それに対して『本当は俺も同じ気持ちなんだ』と言うわけにはいかない。組織(伊達市)として合意して決めたことには、市民から文句を言われても『分かってもらうしかない』というような話しかできなかった。そこが非常につらいところだった」
 「ある時、政府の担当者に『これで賠償金が出たら地域の分断は大変なことになる』と言った。文部科学省の職員は『それはそうですよね』と答えた。しかし、1カ月後に賠償の対象になった。政府の言い分は『原子力賠償紛争審議会が決めた』ということだった。原発事故は国の責任だから賠償はあってしかるべきだが、政策との整合性が取れていないと感じた」

 コミュニティー崩壊の打開へ除染急いだ

 ―特定避難勧奨地点の指定の有無によって生じた地域の分断にどう向き合ったのか。
 「隣とは口を利かないというようなコミュニティーの崩壊は、できるだけ早く直さなければいけないということで除染を急いだ。火事ではないが、火元を消そうと。時間がたてば線量は自然減衰するが、それを待ってはいられなかった。幸い田中俊一さん(後の原子力規制委員長)という助っ人もいた」
 「田中さんと会ったのは11年の5月すぎだったと思う。『誰か市長に会いたいという人がいますよ』ということで。ご本人が伊達小の卒業生というのもあったのだろう。助言を得て学校の除染などに取り組んだ。道具や線量計も手に入り、除染を順調に進めることができた」
 「特定避難勧奨地点の除染については12年12月に終わった。国に『解除してくれ』と言ったら『本当にいいんですか』というような反応だった」

 ―除染の課題は何だったか。
 「仮置き場の問題だ。伊達市では担当者と市民が『仮置き場ができなければ除染できない』と話し合い、仮置き場が見つかった土地から除染した。梁川小の校庭を除染した時、歴史保存地域だから(取り除いた土壌を)地下に埋めることができなかった。持って行く場所がなく、梁川の役場の駐車場をつぶして置いたこともあった」

 ―振り返り、こうしておけば良かったという反省点などはあるか。
 「今は下火になっているが、放射能に対する教育をやらないと駄目だ。年間20ミリシーベルトという基準で右往左往した。年間20ミリシーベルトといってもだんだん減衰していくわけだし、そういうことを考えた時にもっと冷静な対応ができたのではないか。原発問題の全てについて言えるのだが『これはいい』とか『悪い』ということを(誰も)はっきりと言わなかった」