【証言あの時】前双葉町長・井戸川克隆氏 県混乱...県外避難決断

 
井戸川克隆前双葉町長

 「間に合わなかった」。2011(平成23)年3月12日午後3時36分、双葉町長だった井戸川克隆は、東京電力福島第1原発1号機の爆発を地響きとごう音で感じ取った。間もなくして空が薄暗くなり、静かにひらひらと原発の断熱材が降ってきた。

 町内の高齢者施設で避難誘導に当たっていた井戸川は、職員らに「建物の中に入れ」と指示した。あれだけ原発は壊れないと言っていたではないか―。井戸川は悔しさと焦り、そして強い怒りを感じた。

 住民の避難先となった川俣町に着いた井戸川は、13日にスクリーニング検査を受ける。「問題ありません」。その答えに納得できず県と14日朝に再検査する約束をしたが誰も来ない。待っている間に線量計を見ると、針が振れた。放射性物質が川俣に届いたのかと思った。

 14日夕、福島市の自治会館に設けられた県災害対策本部に飛び込んだ井戸川は、慌ただしく動く職員を目にする。この時、「この混乱している対策本部に町民の命を預けられない。自分でやるしかない」と覚悟したという。

 知人を通じて、県外の避難先の情報を集めた。放射能から遠ざかり、町民が1カ所に集まることができる場所として埼玉県のさいたまスーパーアリーナが浮上した。井戸川は県外避難を決断する。町民約1200人と共に19日に大型バスで移動した。3月末には、埼玉県加須(かぞ)市の旧騎西高に避難先を移した。

 県外避難をした井戸川に、新たな難題が突き付けられる。除染で出た土壌などを保管する中間貯蔵施設の問題だ。井戸川は「双葉が受け入れる理由はない」と思ったが、環境相の細野豪志に「話を始めるなら大熊、双葉の両町長が同席した場でないと駄目だ」と訴えた。

 「一席設けました」という連絡を受け、福島市に出向いた井戸川。席は四つしかない。官僚が2人座っており、残りは細野と井戸川。大熊町長だった渡辺利綱が座るはずの席はなかった。「話が違う」と抗議した井戸川は席を立った。

 政府は、中間貯蔵施設の候補地の絞り込みなどを進めた。ある時、当時の知事佐藤雄平から連絡があった。県東京事務所で向き合った2人。佐藤は「分かってくれよ」と切り出した。「知事、理由があっかよ」と返す井戸川。視線を合わせたまま沈黙が訪れ、井戸川は事務所を出た。

 後に井戸川は、県や双葉郡8町村でつくる協議会を欠席。このことが遠因となって町長を辞職する。井戸川は「事故の原因者の東電が責任を取らない中、子孫にまで迷惑を掛ける施設を押し付けられる義務はないという信念だった」と語った。(敬称略)

 【井戸川克隆前双葉町長インタビュー】

 前双葉町長の井戸川克隆氏(74)に、東京電力福島第1原発事故に伴う県外避難や中間貯蔵施設などを巡る経緯などを聞いた。

 爆発「間に合わなかった」静かに降ってきた断熱材

 ―2011年の東日本大震災の発生時はどこにいたのか。
 「富岡町の双葉地方会館に書類を届け、駐車場を出た時に揺れを感じた。大きな揺れに『(第1原発の)2号機は持たないな』と思った。以前、工事現場にいて見たことがあったので、あそこは危ないと。ラジオで津波(の高さ)は3メートルと言っていたので、浜街道を通り、町役場に戻った。到着してすぐに4階まで駆け上って海を見た。もう津波が来ており、数分間遅れていたら死んでいただろうなと思った」

 ―すぐに災害対応に当たったのか。
 「災害対策本部を開き、避難所開設の指示などをした。3月11日午後8時から12日午前0時半ぐらいまでは避難所を巡った。今考えると失敗だった。まさか県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)が機能していないとは思わなかったから」
 「(11日午後8時50分に)県が第1原発の半径2キロに避難指示を出したのも分からなかった。避難所を回っていた時、原発近くの郡山地区の人が(原発から離れた)上羽鳥の公民館にいた。『なんでいるの』と聞いたら『避難しろと言われた』と。(今思えば)ぼけっとしていた」

 ―原発の状況をどう聞いていたか。
 「避難所から戻り(原発の緊急事態を示す)10条通報、15条通報を読んだ。12日午前3時半ごろ、東電の武藤栄氏(当時の副社長)が来た。この時に(放射性物質を外部に放出する)ベントという言葉は聞かなかった。既に議論されていたはずだったが」
 「12日朝にテレビで半径10キロに避難指示が出たことを知った。午前6時すぎには(当時の)古川道郎川俣町長に電話して避難受け入れを要請し、午前8時ごろに避難を始めた」

 ―放射線量はどうだったか。
 「放射性物質が飛んでくると大変だから、役場の旗で風向きを見ていた。午後1時ごろから(第1原発から)双葉の方に風が吹いてきた。午後2時ごろ、町役場にいた警察官が『限界ですよ』と言った。『分かった』と言って、残っていた職員に最終退避命令を出した。その後、避難が遅れているとの情報があった(高齢者施設の)ヘルスケアーふたばに向かった」

 ―現場の状況は。
 「自衛隊や職員らが走り回っていた。そんな中で午後3時36分に1号機が爆発し、爆発音と地響きを聞いた。『間に合わなかった』と思っていたら、空が少し暗くなり、静かに断熱材が降ってきた」
 「大声で『建物の中に入れ』と言った。時間がないと焦った。(東電が)『絶対に壊れない』と言っておきながら―と思うと悔しく、怒り狂った。(断熱材などが)降ってくるのが落ち着いてから川俣町に向かった」

 町民1カ所に、何とか県外に出したかった

 ―川俣町に着いてからはどうだったか。
 「13日に県のスクリーニング検査を受けた。12日の出来事があり着替えもしていないのに『問題ありません』と言う。あり得ないと思い県に電話し14日朝に川俣でやり直す約束をした。でも14日午後3時すぎまで誰も来ない。県の災害対策本部に乗り込むことにした」
 「出掛ける前の午後4時半ごろ、窓際の線量計を何げなく見ていたら、針が振れた。(3号機の爆発で放射性物質の)プルーム(雲)が川俣にも来たのかと思った」

 ―県の災害対策本部はどのような状況だったか。
 「入ったら大混乱していた。『この対策本部に町民の命を預けたら駄目だ。かじ取りは俺がやるしかない』と覚悟を決めた。15日午後には古川町長に再避難の方針を伝え、了承を得てから知人に県外避難に向けて助けを求めた」

 ―どのような内容か。
 「『行くところを探して』と頼んだ。その日のうちに連絡をもらい、埼玉県のさいたまスーパーアリーナと群馬県片品村が受け入れ可能だと分かり、電話した。もう1カ所、新潟県柏崎市にも受け入れを要請した」
 「片品村は南相馬市を受け入れることになった。最終的にスーパーアリーナを選ぶことになり、準備をしてくれていた柏崎市に断りと謝罪の電話をした」

 ―なぜ埼玉県に決めたのか。
 「当時、川俣に約3000人の(双葉)町民がいた。冬季であること、町民が1カ所にまとまれることを考えた。とにかく放射能から遠ざかろうと思った。どれだけ被ばくしたか分からない状況で、何とか町民を県外に出したかった」
 「応対してくれた埼玉県職員も好意的だった。埼玉県にはバスの手配もお願いし、19日には用意できることになったので、18日に町民に埼玉への避難を知らせた」

 ―反応はどうだったか。
 「親戚や友人など行き先がある人はそれぞれ避難先を決めた。残りの約1200人が40台のバスに乗り、19日にスーパーアリーナに向かうことになった」
 「19日のうちに到着し、(当時の)埼玉県の上田清司知事が迎えてくれた。同時に『ここは30日までしかいられませんので、次の場所は探しておきます』と言われた。全てお任せした。21日に加須(かぞ)市の旧騎西高で受け入れてもらうことが決まり、30日から移動した。雨露をしのぐことができて、衣と食があればと思った」

 ―県外避難について国や県に連絡したのか。
 「埼玉に移動する時に(当時の)佐藤雄平知事に電話した。11年5月か6月ごろ、会いたいというので福島市で知事に会ったが、その時『俺は県民を県外に出したくないんだよ』と言われた。特に理由については説明されなかった。この時から対立軸が生じた」

 ―加須市ではどのように町民と向き合ったのか。
 「町民に『私を叱れ』と言った。町民がさまざまな問題を自分の中にため込んでしまい、自殺につながることを恐れた。町民からは賠償の問題など何も先に進まないではないかという声が多かった」

 中間貯蔵「引き受ける理由あっか、知事」

 ―中間貯蔵施設の話は11年8月に、当時の菅直人首相が佐藤知事に要請して正式に始まるが、それより以前に打診はあったか。
 「政府が施設の構想をにおわせ始めたのは11年夏ごろで、細野豪志氏(環境相などを歴任)がキーマン。(水面下で)打診を受けた時期ははっきりしないが、即座に断った。ただ、細野氏には『この問題を始めるには、双葉町と大熊町の町長が同席した中で進めないと駄目だ』と提案した。彼は『分かりました』と言った」
 「11年の秋だったと思うが『一席設けます』と連絡が来て、福島市の県庁近くの料亭のようなところに行った。席が四つあり、官僚2人が座っていた。残る2席は私と細野氏。『話が違う。大熊も入ると言っていただろう』と言うと『まあまあ今日は何とか』と始まったので『話はなしだ』と言って帰った」

 ―その後、政府は双葉郡への設置などを要請してくるが、中間貯蔵施設についてどのように考えていたのか。
 「(最初の)協議を断られたので、私はもう架空の話と思い、引き受けるつもりはなかった。そもそも原発事故を起こした東電の責任はどうなるのか。押し付けられる義務はないと考えていた」
 「当時は双葉地方町村会の会長だった。中間貯蔵施設の議論は町村会で話し合うと決まっていたので、会長の立ち場としては(復興に関わる賠償など包括的な問題として)議論しなければならなかった」

 ―12年11月28日、佐藤知事が中間貯蔵施設の調査受け入れを表明した。その会合を欠席したが、理由は。
 「環境省をはじめ誰も設置理由についてまともに説明できない中で、次の議論に進めないと考えていた。議論は町村会で行うことになっていたのに、なぜ知事が会議を招集するのか。県にはそのような権限はない。だから欠席した」

 ―会合の終了後、知事は双葉町長とは事前に話したと言っているが。
 「知事から何度も電話があり、11月20日に県東京事務所で会ったことはある。知事は中間貯蔵施設について『分かってくれよな』と切り出した。『どうして双葉で引き受けなければならないのか。理由あっか、知事』と返した。そうするとこちらをにらんだまま黙ってしまった。席を立ってドアノブを握った時、もう一度『なあ、分かってくれよな』と言うので『分かんねえ』と答えて帰った」
 「(私と)会ったという事実をつくりたかったのではないか。12月3日には知事が加須に来たので会った。その時には中間貯蔵については特に話さなかった。知事は報道機関の取材に『(町長は)分かっていると思う』と言っていたけど」

 ―会合の欠席などを理由に双葉地方町村会長を辞任することになり、町議会からの不信任決議の後に町長を辞することになるが。
 「ああいう境遇には遅かれ早かれ追い込まれたのではないか。国策に反対していたわけだから。覚悟していた」