【証言あの時】前葛尾村長・松本允秀氏 避難先「自分で探して」

 
松本允秀前葛尾村長

 「危ないならまず避難。たいしたことなければ戻れば良いと考えていた。命が一番大事だから」。前葛尾村長の松本允秀は全村避難を指揮し、東日本大震災の発生から4日後の2011(平成23)年3月15日、東京電力福島第1原発から100キロ以上離れた会津坂下町に村民を移動させた。

 3月11日の地震で村内に大きな被害はなかったが、12日に異変が生じる。村内の道路が海沿いの町村から避難してくる車で埋まった。避難者を通じて「原発が危ない」という情報がじわじわと広まった。松本は村議会に全員協議会を開いてもらい、非常時の対応の一任を取り付けた。

 12日夕には、1号機の水素爆発を受け、政府が原発から半径20キロ圏内の避難指示を出したため、該当する村東部の世帯を村内の別の場所で受け入れた。松本は「20キロを超える避難となる場合には連絡が来るはずだ」と考え、役場機能を避難先で維持するための準備を始めさせた。

 14日午前、3号機が水素爆発する。「急いで屋内退避を」。駐在勤務の警察官が防護服姿で役場に飛び込んできた。松本は事態の深刻さを受け止め、県を通じて避難先を探すよう職員に指示した。しかし、返ってきたのは「(20キロ圏外に)避難指示は出ていないので、自分で探してください」との答えだった。松本は再調整するよう求めたが、回答は電話回線の途絶により届くことはなかった。

 14日夜、役場近くの消防を通じて「オフサイトセンター(県原子力災害対策センター)が撤退した」との情報が入る。松本は「政府からの避難指示なし」での全村避難を決断する。すぐに村民を集めてバスに乗り込んだ。行き先は福島市のあづま総合運動公園。松本は「約束も何もない。駄目なら広い駐車場で野宿すれば良いと思った」と、当時を振り返る。

 幸い避難を受け入れてもらい、村民は体育館で一夜を過ごした。しかし、翌15日になると、福島市から避難する人が出ている、との情報が届いた。松本と村の幹部職員は「原発から100キロ以上離れた場所まで避難しよう」と決め、県を通じて会津坂下町から避難受け入れの了承を得た。村民はまたバスに乗り、会津へと向かった。

 夕方に会津坂下町に到着した。その時、松本の携帯電話が鳴る。「村にいる姉と連絡が取れない」。職員に確認すると、1軒で避難の連絡漏れがあった。松本は「職員には行かせられない」と、一人公用車のハンドルを握って葛尾に向かい、女性を福島市にいる息子の元へと送り届け坂下に戻った。結果、村長の避難が一番遅れる形となってしまった。

 後に松本は、素早い避難行動が評価され、環境関連の危機対応に貢献した個人、団体を表彰する国連の「グリーンスター賞」を日本人で初めて受賞する。(敬称略)

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 葛尾村 東京電力福島第1原発事故に伴い2011(平成23)年3月14日に、村民約1500人が全村避難した。地震による直接の死傷者はいなかったが、外出先で津波被害を受けた村民1人が行方不明のままとなっている。16年6月、村の大部分で避難指示が解除されたが、村内に居住するのは10月1日現在、震災前の約3割に当たる423人で、うち約100人が新規転入者。村民の多くが今も三春町や郡山市などで避難生活を続けている。帰還困難区域の野行地区約1600ヘクタールのうち、約95ヘクタールが特定復興再生拠点区域(復興拠点)で、村は22年春の解除を目指している。

 【松本允秀前葛尾村長インタビュー】

 前葛尾村長の松本允秀氏(82)に、東京電力福島第1原発事故に伴う避難や村の課題などを聞いた。

 国から連絡はあるだろうと思っていたんだけれどね

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の発生時にどこにいたか。
 「役場2階の村長室で執務に当たっていた。階段で下に行くのは危険かと思い(揺れが)収まってから1階に下りて災害対策本部をつくった。地区担当の職員を決めていたので被災状況などを把握しに行かせた」

 ―原発事故の情報は入ってきたのか。
 「政府や東京電力などからは何もなかった。12日になると浪江町や大熊町、富岡町などから住民が避難してきた。その人たちや村外に働きに行っている家族らから情報が伝わり、避難する村民がちらほらと出てきた」

 「そこで村議会に全員協議会を開いてもらい、避難などの緊急時になった場合、費用などについて専決処分させてほしいと申し入れ、了承を得た」

 ―12日夕には福島第1原発1号機の爆発を受け、政府が半径20キロ圏内に避難指示を出すが。
 「国から連絡が来たと思う。半径20キロ圏内の世帯については村内で受け入れた。このころは、避難が半径20キロを超えるような状況になれば当然(国から)連絡はあるだろうと思っていたけれどね。ただ、なかったんだよな」

 ―14日午前11時に3号機が爆発した。
 「防護服を着た駐在さん(警察官)が『屋内退避』と言いながらバタバタと役場に入ってきた。それを見ただけで、すごいことなんだという感じがして、無線で(村民に)屋内退避を呼び掛けた。避難しなくちゃならないなと思いました」

 ―避難先の当てはあったのか。
 「県の相双地方振興局に『避難したいから避難先を探してほしい』と要望した。そうしたら『(避難の)指示が出ていないのだから、避難するなら自分で見つけて』という対応だった。『そんなことを言わないで』と言って、対応してもらうことになったが、電話がつながらなくなり、答えはもらえなかった」

 ―14日夜に全村避難をしたが、決断のきっかけは。
 「広域消防(双葉地方広域消防本部)から『県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)が撤退している』と情報が来た。オフサイトセンターが頼りなのに、撤退したら村も避難せざるを得ない。これが決め手となった」

 ―どのように避難したのか。
 「体の不自由な人を職員が迎えに行くなど、前もって段取りしていたこともあり、防災無線で(村民に)集まってもらった。12日ごろから、公印や行政データのバックアップ機器などを車に積み込んでおいたので比較的すんなりいったと思う」

 ―福島市のあづま総合運動公園に避難したが、事前に約束などをしていたのか。
 「していない。あそこは駐車場が広いので、入れなかったら車で野宿すればいいという感覚だった」

 「消防団(の在籍)が長かったから、山火事のとき大事にならないようすぐに住民を集めていた。怒られても『何もなかったから良かったでしょう』と納得してもらっていた。あの時も危ないならまずは逃げて、大したことがなかったら帰ればいいという考えだった。やっぱり命を考えないと。(あづま総合運動公園に)行ったらたまたま受け入れてもらった」

 苦労する畜産農家に答えを出せなかった

 ―14日夜に福島市に避難し、15日には会津坂下町に再避難するが、その背景に何があったのか。
 「福島市から避難している人が出始めているという情報が入った。『福島市でもまずいのではないか』となり、県に相談したところ、会津坂下町で受け入れてもらえるようになった。(あづま総合運動公園内の)体育館で役場機能を再開したり、長期間避難したりはできないだろうと考えたことも理由だ」

 「村民に集まってもらい、バスで移動した。ただ、村に家畜を残してきた農家の人たちは『会津からは通えないから、ここに残る』と言って、250人ぐらいは残った」

 ―15日夕に会津坂下町に到着してからは。
 「到着して食事の準備をしようとしていた時、携帯電話が鳴った。知人からだった。『姉に電話をしたが通じない。どうなっている』と。職員に確認したら(避難する時)1軒だけ連絡していなかった。職員の誰かに迎えに行けなんてとても言えない。『迎えに行ってくる』と言い、葛尾まで戻り、女性を福島市に住む息子さんのところに連れていった。坂下に戻ったのは遅い時間だったので、その日のうちに当時の竹内昰俊会津坂下町長(13年に死去)にあいさつできなかった」

 「4月に入り、ようやく避難指示が正式に届いた。村が警戒区域と計画的避難区域になるとの通知だった。独自に避難してから40日以上たっていた。それまでは、自分たちは勝手に避難したのかと思い、非常に不安だった」

 ―避難中、課題となったのは。
 「畜産農家は大変苦労した。牛や豚、ブロイラーなどが村に残されていた。農家の人たちは、避難所から旅館などに2次避難した後も、餌をあげたり、世話したりするために葛尾に通っていた。帰りにはスクリーニング検査を受けていた」

 「通いきれなくなる農家も出た。当時は賠償制度もなく『どうなるんだ』と怒りの声も上がった。県などに相談してもなかなか答えが出ない。だから、牛などを(畜舎から外に)放さざるを得ない人もいた。警戒区域の20キロ圏内は全て殺処分になった。村が判断できる内容ではなく、『答えを少し待ってくれ』ということしか言えなかったのがつらかった」

 三春は村民にとって安心できる場所だった

 ―その後、役場機能を三春町に移すことになるが。
 「村に近いところに避難先を変えようと思い、議会とも相談して三春町にしようと決めた。村の意向を固めてから、県を通じて三春町の了解を得た。役場機能を移すと同時に、村民の仮設住宅を周囲に造る考えだった。ところが三春には先に富岡町民が避難しており、富岡も仮設を造りたいという話になっていた」

 「当時の鈴木義孝三春町長も困ってしまい『私は決められないから富岡町長と話してくれないか』となった。当時の遠藤勝也富岡町長(14年に死去)とは双葉高の先輩後輩の間柄だった。優先権は富岡にあったが、遠藤町長が『先輩に任せます』と言ってくれたので『ここは富岡、ここは葛尾』と場所を分けた」

 ―三春町は村に通える距離だったのか。
 「三春から葛尾まで45分ぐらい。葛尾はかつて木炭の産地で三春を通って消費地の郡山に届けていた。三春の競り市で家畜を仕入れたり、三春から葛尾の店に商品が卸されたりする交流もあった。村民にとっては『三春ならば』と安心できる場所だった」

 ―13年には、環境関連の危機対応に貢献した個人や団体をたたえる国際的な賞の「グリーンスター賞」を受賞したが、その経緯は。
 「外国の団体で何の賞かも分からなかったし、表彰されるようなこともしていないから一度は断ったんだ。ところが、元ソ連大統領のゴルバチョフさんが私財を投じてつくった賞だと聞き『それは断れないな』と思って受けた」

 ―震災から10年を迎える。村の現状をどう見ているか。
 「避難したばかりのころは、帰って昔の生活ができたらとの思いが確かにあった。しかし、時間がたつにつれて体力の面でも、意欲の面でも変わってきた。一番大きいのは、避難によって世帯の分離が進んだことだ。高齢者は仮設住宅に入ったが、若い世代は仕事や子どもの教育などで自分の家を確保したため、ばらばらになってしまった」

 「しかし、村に帰ってきていない世帯でも、(村内にある家は)荒れているようなところが少なく、しっかり手入れされている。村に愛着を持っていて(避難先と村を)行ったり来たりする二地域居住のようになっている世帯が多いと思う。いずれ、どっちに定着するかが問題になるだろう。いろいろと悩んでいるというところではないですかね」