【証言あの時】前福島県知事・佐藤雄平氏(上)原発安全...神話だった

 
佐藤雄平前福島県知事

 「何かおかしいぞ」。2011(平成23)年3月11日午後2時46分、県庁にいた知事の佐藤雄平は、東の方角から地鳴りのような音が近づいてくるのを感じた。間もなく、大きな揺れが襲った。長く続く東日本大震災の災害対応の始まりだった。

 佐藤らは知事公館前に集合し、県の災害対策本部を県庁の西隣の自治会館に設置することを決めた。佐藤は双葉郡が津波の被害を受けたことを聞き、「原発は大丈夫か」と考えた。担当部長を問いただしたが、詳しい状況は分からなかった。

 間もなく「東京電力福島第1原発の(核燃料を冷やす機器の)電源が止まっている」との情報が入った。冷却ができなければ、核燃料は溶け落ちる。原発には、電気を供給するための電源車が向かっていた。佐藤が「何時までに到着すれば間に合うのか」と職員に聞くと、「午後8時なら大丈夫です」との回答だった。

 だが、午後8時になっても電源車が到着したという報告は来ない。第1原発2号機では、冷却する水が失われ核燃料がむき出しになっているとの情報が入っていたため、佐藤は午後8時50分、独自の判断で原発から半径2キロの住民に避難要請を出した。政府の最初の避難指示よりも30分早い決断だった。

 電源車到着に安心感

 午後9時すぎ、最初の電源車が到着したとの一報が入った。この時、第1原発はすでに津波により電気系統に深刻な被害を受けており、電源車が到着しても冷却機能の復旧は不可能だった。そのような実情を知るはずもなく、佐藤は電源車の到着で安心感を得たという。翌12日朝には、新地町などの津波被害の視察に赴いている。

 その後、原発の状況は悪化の一途をたどり、政府は第1原発から半径10キロに避難指示を出す。原子炉の圧力を逃がす「ベント」なども功を奏さず、12日午後3時36分、1号機が水素爆発した。

 佐藤は双葉郡の町村と連絡を取り避難誘導しようとしたが、通信網の途絶により困難を極めた。県の施設などを開放し、避難者の受け入れに注力することが精いっぱいだった。

 原発事故は収束せず、避難指示は半径20キロに拡大され、3号機の水素爆発で半径20~30キロに屋内退避指示が出されるなど、過去の原子力防災訓練で想定した範囲をはるかに超えた大災害となった。15日には大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)が県庁に撤退する。

 佐藤は「原発の安全はまさに神話だった。訓練も原発が爆発するようなことを想定していなかった。急場をしのげるはずもなかった」と振り返った。(敬称略)

 【佐藤雄平前福島県知事インタビュー】

 前知事の佐藤雄平氏(72)に、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からおおむね1週間の災害対応などについて聞いた。

 双葉郡が津波に、原発が頭に浮かんだ

 ―2011年3月11日の震災発生時は何をしていたか。
 「県庁の特別会議室でインタビューを受けていた。そうしたら東の方から地響きが聞こえてきて、揺れが襲った。座っていた椅子は窓側に移動してしまうし、大変な地震だと思った」
 「職員に誘導され、知事公館に行った。そこでの情報収集は無理だったので、自治会館に災害対策本部を設けることにした。双葉郡が津波の被害に遭っているという話になり、その瞬間に原発のことが頭に浮かんだ。担当部長に『原発は大丈夫か』と聞くと、まだ連絡が入っていないと。とにかく情報収集しろと指示した」

 ―第1原発の異常に気付いたのはいつごろか。
 「(核燃料を冷却する機器の)電源が止まっているという話になった。東京電力が東北電力を交えて電源車を用意していると。(燃料が溶けるまでの)タイムリミットを聞いたら(11日の)午後8時だと言った」
 「ところが午後8時を過ぎても到着しなかった。(原子炉内の水位が低下して)2号機の燃料の頭がむき出しになっているという情報もあったので、(午後8時50分に)半径2キロの避難をお願いした」
 「そうしたら午後9時すぎに(電源車が)到着したと聞き『着いて良かった。助かった』と安堵(あんど)した。『冷却はできたのか』と聞いたら、その情報は入っていないと。その後、避難所をどうするかということが課題となり、そのまま安心してしまった。12日の朝には、新地町と相馬市に津波などの状況を視察に行った」

 ―原発の情報はどのように入っていたのか。
 「福島市の東電事務所長から聞いていたが、どうしても間接的な内容だった。むしろテレビを見ていた方が現状が分かった。政府から連絡が来てもテレビよりも遅かった。(原子炉の圧力を逃して爆発を防ぐ)ベントについては(県の)担当部長に連絡が来ていた」

 ―ベントをどう考えていたのか。
 「専門家が考えた話だから(原発の)爆発は防げるのかなと期待したよね。ところが1号機が爆発してしまった。もう頭が真っ白になった。政府も東電も、原発は何重にも安全対策が施してあり、爆発するようなことはないと言っていた。われわれも信用していた。安全神話だったことに気が付いた」
 「知事として原発の災害訓練を毎年やっていたが、あれは放射性物質が漏れたらどうするかという話だから。原発が爆発すると想定した訓練ではなかった。想定外の災害だった」

 ―そのころ双葉郡の町村と連絡は取れたか。
 「全然取れなかった。町村長と連絡を取り、県が避難できるところを指示しようと考えていたが、残念ながら取れなかった。(双葉郡の住民は)報道を通じて避難所を知り、避難している状況だった」

 首相に政府と東電が一日も早く収束させろと

 ―スクリーニング検査が12日から始まるが、県主導だったのか。
 「国だった。県がやろうとしても(検査の)機械がなかった。福島医大にも相談し、協力を得て実施した」

 ―第2原発についても緊急事態が宣言され、ベントを行うという話になったが、どう感じていたか。
 「(第1原発では)ベントの効果がなかった。だから、東電と資源エネルギー庁だけではなく全国9電力に『技術者の知恵を出して集中してベントの対応をしろ』と怒ったというのはあったな」

 ―14日の3号機爆発をどう感じたか。
 「『またか』という感じだった」

 ―政府は、原発事故により関東地方全体が危なくなるという最悪の事態を想定していた。県は災害対策本部を移動するような想定はあったのか。
 「それはない。オフサイトセンターが事故対策の最前線であり、県庁は県内の避難所をどうするかなどの対応に当たっていた。センターには当時の内堀雅雄副知事らがいて、情報を送ってよこした」
 「しかし、オフサイトセンターの放射線量が高くなってしまったため、15日に撤退して県庁に機能を移転した。撤退は、現地で国などと合意して決めたと思う。すぐに機能を引き受けることができるのは県庁だということになり、本庁舎5階の正庁を移転先とした」

 ―原発事故時、安定ヨウ素剤を服用することになっていたが、対応は。
 「オフサイトセンターに専門家がいて、どれくらい放射性物質が降っているかという基準の中で(判断し)、飲ませる必要がある場合には、県に連絡が来ると思っていた。連絡は来なかったので特段の対応はしなかった。別のルートからも指示はなかった」

 ―オフサイトセンターを巡っては、09年の総務省の行政調査で放射性物質を遮断するフィルターがないと指摘されていたが。
 「それは覚えていない」

 ―当時の菅直人首相と、どのようなやりとりをしたのか。
 「早い段階から直接連絡し『原発の設置者である政府と東電が一日も早く収束させろ。あそこには4基原発がある』と口を酸っぱくして言った」

 ―放射性物質が飛散し農畜産物にも影響が出てきた。16日には飲用水などの検査が始まるが、どのような状況だったか。
 「政府に『放射性物質が県内のどこに、どれくらい降ったのか各地の線量を測ってくれ』と頼んだ。そうしたら『1キロ(四方を単位として)で測る』と返してきた。抗議して10メートル(網の目)で測るように言った。(放射線量が高い)ホットスポットを県民に提示できるようにしろと」

 ―強く抗議したのか。
 「相当に。でもすぐには実現しなかった。2~3週間後だったか。(放射性物質の拡散を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムの)SPEEDIの報告もなかった。あの時、浪江町長だった(当時の)馬場有氏(18年に死去)が一番怒っていた。放射線量が高い地域に住民を避難させてしまったと」
 「農畜産物では、出荷できない牛の乳を搾って捨てる光景を見た時には、涙が出た」

 ―SPEEDIを巡っては12日ごろから、政府機関から県にメールで予測結果が届いていたが、職員が消してしまっていたという問題が後に分かった。
 「当時は知らなかった。怒っても仕方がないと思ったけど、何だということになった。当時の対応は省庁ごとに縦割りで、担当課もよく理解できないところもあったのではないか」

 政府の担当者、すぐに代わるのが許せなかった

 ―佐藤氏は、県の災害対策本部に派遣される政府の担当者がすぐに代わることに抗議していたが。
 「あの対応は許せなかった。福島には放射線(の影響)があるからそうしているんだと思ったこともある。福島ナンバーの車が他県の施設に入れないとかの問題があったから」
 「政府に『現地をよく知るためには、われわれと一緒にいないと分からないだろう』と強く抗議したら、当時の原子力安全・保安院の平岡英治次長が常駐することになった」
 「あの頃は、東京でやっている政府の会見も人ごとのように見えた。どこか他の国の原発事故について語っているような対応だったと感じた。県民が避難所に身を寄せ、放射線を心配していることを分かっていないだろうと思った」

 ―時期は少しずれるが、震災から1カ月の4月11日に、当時の東電社長の清水正孝氏が県庁に謝罪に訪れた。
 「あれは、東電側がもう福島駅に着いているような状況で(面会したいと)申し出があったと思う。一日も早く原発事故を収束させることが大事なので、儀礼的な謝罪はいらないということで断ったのだが、県庁に来た」

 ―10年に本県が第1原発3号機にプルサーマル発電の導入を検証する際、東電は原発の安全性を強調していたが、その対応をどう見ていたのか。
 「東電と同時に、政府もお墨付きを出していたから。政府への信用は私にはあった。だが、どれだけシビアに原発についてチェックしていたのか。当時の(原発を規制する)原子力安全・保安院は(原発を推進する)経済産業省の下にあり、残念ながら序列は低かった」

 ―政府や東電に裏切られたという気持ちはなかったのか。
 「裏切られたというよりもね。本県は只見川の電源開発から、自分たちで1ワットも使わずに電気を東京に送ってきた。さらに電力が必要になり、原発が福島にできた。日本経済や東京の暮らしを支えてきた本県が、原発事故の被害を受けた。裏切られたというより、失望だろうな」
 「今はもう忘れられているようだが、福島県は大都市にエネルギーを供給してきた。今日の日本があるのは福島県の電気の供給があってこそ、という誇りを持たないといけない」

 ―佐藤氏が避難所などを訪れた時、厳しい言葉を掛けられたと思うが。
 「着の身着のままで避難してきた人から見れば、知事が来ようが、総理大臣が来ようが、『何しに来た』という話だよ」

 ―今、振り返ると原発事故への備えは甘かったか。
 「想定外という言葉があるけれども、まさに想定外。原子力事故の訓練というのは、何だろうな。想定外を想定した訓練をしないと、急場はしのげない」

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 前知事の佐藤雄平氏(72)が福島民友新聞社の取材に応じた。震災と原発事故からの復旧・復興の過程で、どのようにして政策を決定したのか。その背景などを3回にわたって詳報する。