【証言あの時】前福島県知事・佐藤雄平氏(中)福島は取り残される

 
当時の野田佳彦首相に特措法の早期成立を訴える佐藤知事(左)=2012年2月24日、首相官邸

 「たとえどのような政権になっても、きちんと福島の原子力災害からの復興を進めていくための法律が必要だった」。前知事の佐藤雄平は2012(平成24)年3月の福島復興再生特別措置法の成立を振り返った。

 佐藤が本県に特化した法律の必要性を明確に意識したのは、11年4月から始まった政府の東日本大震災復興構想会議の席上だった。岩手、宮城の両県は同じ震災の被災県だが、すでに復旧、復興の話をしていた。佐藤は「同じ枠組みではどうしても東京電力福島第1原発事故があった福島は取り残される」と、危機感を感じた。

 政府がさまざまな復興政策を決めた際に「知事、閣議決定したので大丈夫です」と報告してくることにも一抹の不安を感じていた。佐藤は知事就任前、衆院議員秘書や参院議員を経験し、政界や官僚組織の表も裏も知り尽くしていた。

 「閣議決定は重いが、内閣が代わったら場合によっては踏襲されない可能性もあるな」と、政府に対して立法を働き掛ける腹を固めた。副知事だった内堀雅雄、松本友作に「将来の福島に必要で、法律に盛り込まなければならないことを所管の部署から聞き取れ」と指示した。

 主導権握りたい政府

 立法化に向けた交渉はおおむね順調に進んだが、政府が復興政策を決める際、福島県知事の意見をどこまで法的に担保するかが争点となった。主導権を握りたい政府と、被災地の意見をできる限り反映させたい県の間で意見が衝突した。国の抵抗は強かったという。

 佐藤は状況を打開するため、単純だが、重みのある言葉を投げ掛けた。「国は(原発事故の)加害者ではないか。こっちは被害者なんだぞ」。法案作成の流れは、知事の意見を重視する方向で決まった。

 特別措置法では、首相が法律に基づき「福島復興再生基本方針」の案をつくる際、県知事の意見を聞かなければならない。さらに知事は、出来上がった案で納得できない部分があれば「変更提案」をすることができる。提案は重く、首相はその意見を踏まえ、方針案を再度検討する仕組みになっている。

 佐藤は「特措法には、こちらが要求していた内容の50%、いやほとんど入れてもらったな。政府の中に福島の復興に全力で対応しなければならないという姿勢があったことも大きかった」と語る。

 特措法はその後、復興が進むにつれて生じてきた新たな課題の解決策を盛り込む形で4度、改正された。中長期的な対応が不可欠とされる本県の原子力災害からの復興。佐藤は「法律は守ってもらうよ」と、政府の動向を今も見据えている。(敬称略)

 【佐藤雄平前福島県知事インタビュー】

 前知事の佐藤雄平氏(72)に、2011(平成23)年3月の東日本大震災の発生から14年11月の退任までに取り組んだ復興政策などを聞いた。

 岩手、宮城と同列では原発災害が後回しに

 ―在任中、東京電力福島第1原発事故による避難区域の見直しが数回あった。11年4月の警戒区域と計画的避難区域の指定について、政府から事前に連絡や協議などはあったか。
 「報告はあったが、それぞれ対象となる自治体と直接対応していたようだ。ただ、知事として『住民の安全・安心と首長の意見を最優先にして対応してくれ』とくぎを刺しておいた」

 ―11年6月に発表した特定避難勧奨地点については。
 「これはないな」

 ―11年12月に発表された帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域への再編はどうか。
 「県に相談はあっただろうが、政府は直接、首長とやりとりをしていた」

 ―避難指示の基準となった年間20ミリシーベルトについては、政府が示してきたのか。
 「そうだ。ただ、当時の内閣官房参与が涙を流して(年間20ミリシーベルトを学校の使用基準にしたことに)抗議した時、保護者が大変心配する事態になった」

 ―早い段階から政府に訴えていたことの一つに、本県の原子力災害に特化した法律の制定があった。後に福島復興再生特別措置法が成立するが、その経緯は。
 「(11年4月から始まった政府の東日本大震災)復興構想会議があるでしょ。岩手、宮城、福島3県がそろうと、もうね、岩手と宮城は復旧なんだ。インフラ復旧をどうするかとか、どんどん進んでいた。ところが福島は原発災害の全体像が分かっていない段階だ」
 「同列になってしまうと、どうしても原発災害(からの復興)が後回しになってしまうから『別にしてもらわないと』と考えた」

 ―それで立法を考えたのか。
 「あともう一つ。政府はよく(復興政策について)『閣議決定したから大丈夫』と言ってきていた。だけど、閣議決定というのは重いけど、内閣が代わると場合によっては踏襲されない可能性がある。だからどんな内閣になっても、きちんと福島の復興を進めてもらうために、立法が必要だとなったんだ」

 ―立法を政府に働き掛けるため特別なチームなどは編成したのか。
 「つくらなかった。当時の内堀雅雄、松本友作の両副知事はそれぞれ担当部署を持っていたから『今後の福島県に必要なものをまとめろ。それを特措法の中に出せ』と言った。要望は半分以上、いや、ほとんど認めてもらったな」

 ―復興再生基本方針などに知事の意見を入れようとしたところ、政府側の抵抗があったと聞いたが。
 「政府は、自分たちが予算を取らなきゃいけないから。自分たちがイニシアチブ(主導権)を握りたがった」

 ―どのように解決したのか。
 「俺が言ったのは『国は(東京電力福島第1原発事故の)加害者で、こっちは被害者なんだ』と。それで決まりだった」

 ―法律が成立した時、どう感じたか。
 「うれしかったね。政府にも、福島に全力で対応しなければいけないという姿勢があったんだ」

 わが県は地震、津波、原発事故、風評の四重苦

 ―子どもの医療費無料化も実現したが、その時は政府と衝突したのか。
 「これはなかった。将来の福島県の中心となる子どもたちは最も大事だから、いくら金をかけてもよい感じで、二つ返事だった」
 「とにかく、どのようにして子どもを守るかが重要だった。校庭の除染は、当時の原正夫郡山市長らがどんどん進めたが、政府が補助金を出せないと言ってきたことがある。あの時は政府の担当者を怒って財源を出させたな」

 ―風評対策にはどのように取り組んだのか。
 「わが県は四重苦なんだよ。地震、津波、原発事故そして風評だ。風評の払拭(ふっしょく)は本当に難しかった。トップセールスで大阪や東京、札幌などに行った。意外とみんなは福島県の地理が分からない。大きな地図を持っていって『ここが原発、ここが宮城、茨城、ここが福島、会津だ』」などと説明した」
 「安全と安心が違うことを感じたな。福島県の農林水産物を安全だと証明するために(検査体制など)お金をかけてきたが、安全は前提であって、安心はなかなか伝わらない。それは今でも課題で、そこをどうするかが風評の払拭につながると考えている」
 「今は『(震災の記憶が)風化しないように』とよく言われる。風評と風化は裏表のような関係に思える。『国民の皆さん、福島の原発事故忘れちゃ駄目ですよ』と言えば、放射性物質を思い出してしまう。そこも難しいところだ」

 ―11年10月、作付けした1174地点のコメを検査して政府の暫定基準値を下回ったことから、いわゆるコメの「安全宣言」を出したのだが、その経緯は。
 「コメの検査結果もあったのだが、そのころ20歳以下の内部被ばく検査で、特別基準より高い人がいないということもあった。一つの安心感があった。それで(コメの安全性などを説明している時に)記者から『それは安全宣言ですか』と聞かれたので『はい、その通り』と言った」
 「安全宣言ということになったのだが、その後で(暫定基準値を超えたコメが)出たんだ」

 ―どのように思ったか。
 「全量検査しないといけないとなった。これも大変だった。どのようにして全量を測ろうか、当時のJA福島五連会長の庄條徳一氏と相談して、県内5カ所ぐらいで検査しようとなった。だけど検査機械の調達に時間がかかった」
 「県主導でJAに協力を求め、機器の開発も行った。政府にお金を出してもらった。それで検査態勢を整えた。全量全袋検査では、生産者一人一人がみんな耐えてくれた。『俺は測らない』とか1件もなかった。純粋で素直に努力する県民性が表れたと思った」

 ―11年8月には原子力に依存しない社会づくりなどを柱とした「復興ビジョン」を策定した。この時はどのような思いだったか。
 「本県は電気エネルギーを関東圏に送り、日本の経済成長に寄与した。それが原発事故で非常に厳しい状態になった。幸い本県は浜通り、中通り、会津と多様性があり、代替エネルギーとなる水力や風力の可能性があった。そこで海や山、川を一体化させて、再生可能エネルギーのモデルとなる県をつくろうと考えた」

 「ふくしま総文」劇中の言葉に勇気づけられた

 ―12年3月11日の震災1年の式典で、知事は復興を誓う「ふくしま宣言」を出す。文案をどのようにして考えたのか。
 「役人的な発想で作られた文章では全く人の心を打たないから、もっと感情というか、気持ちを打つような言葉を自分で所々に入れた」

 ―産業再生について、補助率が高い「ふくしま産業復興企業立地補助金」を創設した。その狙いは。
 「県の製造品出荷額は東北でも高い水準だった。それが原発事故で企業が引き揚げたり、操業停止になったりして大きな影響を受けた。震災前の水準を目指していくためには、企業を呼び込み、稼働してもらうための補助金が必要だと考え、政府と交渉した。充実した内容になった」

 ―ところが、運用する時になって補助金の使い方について政府と県の考え方に食い違いがあり、初年度から、企業からの申請に対して財源が足りなくなる事態になった。
 「(補助金の運用方法で政府と)詰めたつもりだったが、詰めていなかったんだな。足りなくなった部分について、当時の首相の野田佳彦氏と『福島の電気で日本経済が成り立った。今回は福島の復興にお金を回して』とやり合った」
 「当然、財源のことを言ってきたが『特別枠だろう』と返した。補助率は下がることになったが、野田氏が最後に分かってくれて、不足分を出してもらった」
 「産業再生では、郡山市に産業技術総合研究所(の福島再生可能エネルギー研究所)を持ってこられたことが大きかった。福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想も研究所の存在があってこそだ」

 ―在任中の思い出深い出来事を挙げるとすれば。
 「皇室の方々のご来県と、11年8月に行われた第35回全国高校総合文化祭(ふくしま総文)だ。ふくしま総文は震災の影響が懸念されていたのだが、5月ごろ、『知事、(都道府県持ち回りのため)47年に1度しかできないんです。やらせてください』と高校生が県庁にお願いに来た。これにほだされて開催を決めた」
 「当時の状況では、保護者から福島行きを止められたこともあっただろうが、全国から高校生が来た。そこの劇で『福島に生まれて、福島で育って(中略)それが私の夢なのです』という言葉が出た。これは野田氏が行った(首相としての)所信表明演説にも引用された。本当に勇気づけられたことを覚えている」