【証言あの時】前福島県知事・佐藤雄平氏(下)復興の前提固まった

 
佐藤雄平知事が中間貯蔵施設の集約化の方針を伝えた8町村協議 =2014年2月7日

 「自分にとってもそうだったが、何よりも大熊、双葉の苦渋の決断だった」。前知事の佐藤雄平は、除染で生じた廃棄物を集約する中間貯蔵施設の建設受け入れに至る背景を語り出した。

 2011(平成23)年8月27日、首相だった菅直人が県庁を訪れ、佐藤に中間貯蔵施設の県内への設置を要請した。「突然の話。非常に困惑している」。佐藤は憤りを隠さなかった。

 11年3月の東京電力福島第1原発事故で放射性物質が県内に拡散、市町村は表土をはいだり、樹木を伐採したりする除染を始めており、空き地などに「仮置き場」を設けて除染で生じた汚染土壌などを保管している状況だった。

 要請に不快感を示した佐藤だったが、「県内各地で仮置きを続ければ観光や農業などに影響が出るだろう。どこかにまとめなければ」とも考えていた。政府は11年10月、中間貯蔵施設の設置期限を30年以内とし、汚染土壌などは県外で最終処分するという基本的な考え方を示し、議論が進み出した。

 「迷惑施設」の必要性

 政府はその後、原発事故で大きな被害を受けた双葉郡、中でも大熊、双葉、楢葉の3町への分散設置を要請した。市町村が集 まる会合では「早く双葉郡に引き受けてほしい」という声も首長から上がった。佐藤は「双葉郡の首長はつらいはずだ」と思いながらも、「迷惑施設」の必要性を実感していった。

 佐藤は12年11月、施設の調査受け入れを決断する。表明に際して、双葉郡8町村の首長に集まってもらったが、反対の姿勢を明確にしていた当時の双葉町長の井戸川克隆は欠席した。佐藤は「福島県の将来を考えると、施設の設置について考えてもらわなければいけない状況だ」と理解を求めた。

 後に、楢葉町が候補地から外れ、大熊、双葉両町に施設を集約する方向で調整が進む。佐藤は政府の言動に、中間貯蔵施設の設置を通常の公共事業の用地買収のように捉えている姿勢を感じ取っていた。佐藤は「地域には100年、150年続いた歴史や文化がある。そこに放射性廃棄物を受け入れる気持ちを考えないでどうする」と訴えた。

 政府は用地の買収にこだわっていたが、地権者の要望に応じて土地の賃借も認めるようになった。佐藤は賃借の土地があることは、政府が30年後の県外搬出を反故(ほご)にできない材料になると考えていた。ほかの条件もそろい、佐藤は14年9月1日に、建設受け入れを当時の首相の安倍晋三に伝える。

 佐藤は「復興の大前提が固まった。節目だな」と感じた。建設受け入れ表明から3日後、佐藤は残り任期限りでの退任を発表した。(敬称略)

 【佐藤雄平前福島県知事インタビュー】

 前知事の佐藤雄平氏(72)に、中間貯蔵施設を巡る政府との交渉の内幕などを聞いた。

 震災から5カ月後、菅直人氏から打診「何を突然言うのか」

 ―2011(平成23)年8月、首相だった菅直人氏から施設設置を要請されたが、打診はあの時が初めてか。
 「初めて。何を突然言うのかと思った。あの時は別の用件で会うはずだった」

 ―要請をどのように感じたか。
 「市町村が除染を始め、除染で出た土をどうするのかと考え、住民の同意を得て仮置き場に置いていた状況だった。中には『20年置いてもいい』という場所もあったが、それはほんの一部だった」

 「全県的に(仮置き場に)汚染土壌があると、特に観光産業や農林水産業に影響するから、どこかにまとめなければならないという考えが出ていた。(要請を受け)中間貯蔵施設は必要になると考えた」

 ―政府は2カ月後の10月に施設の基本的な考えを示し、12月には双葉郡内への設置を要請した。当初から双葉、大熊両町は浮上していたのか。
 「具体的な名前は出ていなかった。ただ、要するに原発が立地しているところ。そうなると、やはり双葉郡であって大熊、双葉という流れ。両町もそのような認識になることを感じていたとは思うな。政府の方から直接、間接に言っていたのではないか」

 ―双葉郡8町村の首長とは話していたのか。
 「双葉郡の復興をどうするのかということは話していた。それは避難している人の支援や医療などの話だった。汚染土壌の話まではいかなかったな」

 ―12年3月に政府は大熊と双葉、楢葉の3町に分散設置することを表明するが、事前説明はあったか。
 「これはあった。その段階で、原発からたくさん出る放射性廃棄物の保管について、当時の楢葉町の草野孝町長から『わが方で引き受けたい』という話があった」

 ―中間貯蔵とは別の話か。
 「中間貯蔵ではなく、放射性廃棄物の保管庫。工場か何かを造る予定だった土地があり、埋めるのにちょうどよいと。放射性廃棄物も出てくるだろうから、これを対応してもらえればありがたいと思っていた」

 「その頃の話だが、町村会か何かの会合が開かれた。そこで何人かが『仮置きしているものを双葉郡の方でお願いできないか』なんていう話が出たね。双葉郡の首長は本当につらいだろうと思って聞いていた」

 ―政府は避難指示の範囲などについて直接、双葉郡の町村と協議していた。中間貯蔵施設の議論について、政府は県に間に入ってほしいと思っていたのか。
 「県に入ってほしかっただろうな。双葉郡の復興について(当時副知事の)内堀(雅雄)氏を担当にして1週間から3日に1度はそれぞれの町村を回り、いろんな話を聞いてくるよう言っていた。当然その中で、中間貯蔵施設と直接言わないまでも、県内の仮置きをどこかにまとめなければいけない話を、間接的にでもしていたと思う」

 「福島県も困るでしょう」発言に黙って席立つ

 ―候補として挙がっていた自治体の首長の反応はどうだったか。大熊町長だった渡辺利綱氏は、早い段階から腹を決めていたと証言している。
 「それは(東京電力福島第1)原発あったからな」

 ―双葉町長だった井戸川克隆氏はどうだったか。
 「私の後援者だったのだが、なんか途中から音信が不通になっちゃったんだ。少し後の話になるが、(県の)東京事務所に来てもらって(受け入れに)頭を下げたが、途中で帰っちゃったんだよな。埼玉(県の加須市に移動した双葉町役場)にもお邪魔して話を伝えたのだが」

 ―当時の楢葉町長の草野孝氏は。
 「中間貯蔵施設についてはというよりも、放射性廃棄物(の保管庫)は難儀じゃなかったよ。積極的ではなかったが『わが方でやるしかない』と」

 ―後に指定廃棄物を運び込む施設を受け入れた前富岡町長の遠藤勝也氏(14年に死去)は、中間貯蔵施設をどう考えていたか。
 「富岡町長は、それは双葉郡で最後は対応しなければならないという気持ちはお持ちになっていたかな」

 ―12年11月、地元への丁寧な説明を条件として中間貯蔵施設に関連した調査受け入れを表明するが、その時はどのような判断か。
 「福島県を思うといずれわが方で受けないといけない。しかも(原発が)立地しているところに、という気持ちになってきたような雰囲気だったのかな」

 ―会合を開き、欠席した井戸川氏を除く7町村の首長に説明するが、どのような言葉を掛けたか。
 「福島県の将来を考えると、皆さんもこの設置について考えてもらわなければいけない状況だと」

 ―その時、どのような反応だったか。
 「特にあれだな。あの頃はだいぶそういう雰囲気になっていたからね。ただ、あくまで調査の受け入れであり、建設受け入れではなかった」

 ―政権が自公の連立政権に交代し、改めて調査結果を踏まえて3町への設置を要請された。
 「あまり言いたくないが、その時の環境相は石原伸晃氏だ。ある時、俺に『(中間貯蔵施設ができないと)福島県も困るでしょう』という話をしてきたんだ。施設を設置するのは政府で、地元がそれに納得できていない。政府の責任者である環境相が丁寧に説明しなければならないのに『福島県も困るでしょう』とは何事かと思い、黙って席を立ったことがある」

 ―楢葉町では松本幸英氏が町長となった。14年1月には町として引き受けを断り、施設再配置を要請してきたが。
 「大熊、双葉、楢葉の3町の間で合意した話なのだろうと思って受け止めた。それで、県として政府に大熊、双葉に施設を集約するように要請した」

 ―政府が施設の集約を了承したことで、用地問題などで具体的な話が進んでいったが、その頃はどのような状況だったのか。
 「政府は、一般の公共事業のような感覚でいたんだ。とにかく買収すると。だが、それはとんでもない話だ。先祖伝来の土地を手放すのは大変なことだ。それで『地域には100年、150年続いてきた歴史や文化がある。それを手放すんだ。しかも放射能の土壌廃棄物を入れるんだからな。その気持ちが分かるのか』と言った」

 「土地が(全て)買収されると、30年(後に県外搬出する約束)の担保がほごにされる可能性もあった。大熊、双葉の両町や地権者が求めていた土地の賃借を県も推していた。政府も(土地を)賃借(すること)には納得してくれた」

 「(地域振興の)交付金などの話もしていたのだが、その頃に石原氏の『最後は金目でしょ』の発言が出た。余計なことだった」

 ―14年8月末に大熊、双葉の両町長に建設受け入れの考えを伝える。受け入れの前提として考えていた条件は満たしていたのか。
 「そうだ。内堀氏が聞いていた両町のいろいろな要望など。それから9月1日に官邸に伝えに行ったんだ」

 ―官邸で迎えた当時の首相の安倍晋三氏の反応は。
 「なんかほっとした感じのように見えた。向こうから手を差し伸ばしてきてな。政府としては当時の最大の問題、難題だったからな」

 大熊、双葉両町本当に頭が下がる思いだった

 ―苦渋の決断だったか。
 「俺自身も苦渋の決断だったけど、大熊、双葉の両町の決断が大前提だからね。本当に県民のことを思って、苦渋の決断をしてくれたなって。頭が下がる思いだった」

 ―その後に自らの進退を発表するが、当時の思いはどうだったか。
 「知事として原発事故後の県の将来を考えた時に、中間貯蔵施設(の場所)さえ決まれば、あとは福島復興再生特別措置法があるから、復興はおのずと進んでいくなと思った。復興の大前提だった。それをやれたのが自分にとって(政治人生の)節目だった」

 ―建設受け入れを決めた知事として、中間貯蔵施設の今後について政府に言いたいことは何か。
 「30年後の県外への搬出は法律に書き込まれたわけだから、守ることは当然だ。今も原発事故で避難している県民がいることを忘れてはならない。なぜ原発は何基も福島に集中していたのか。エネルギーも食料も地産地消という国造りを進めるのが、今後の日本の課題ではないかな」

 ―震災から間もなく10年となるが、今の県をどう見ているか。
 「震災前と震災後で子どもたちの弁論大会の内容を比べると、『人の役に立ちたい』というような主張が多くなった。今の本県の若年層には、他県に負けない辛抱強さとか忍耐強さが備わっていて、運動や文化などさまざまな場面で活躍してくれていると思う」

 「政府の復興政策そのものが、何か形式的になっている感覚がある。わが県の国会議員には、与野党問わずあらゆる機会で県民の頑張りを政府に伝え、風化することがないようにしてもらわないとならない」