【証言あの時】元環境相・細野豪志氏 中間貯蔵...政府側キーマン

 
細野豪志元環境相

 「東京電力福島第1、第2原発の立地4町には、一定の役割をお願いするしかないなという話はしていましたね」。除染で出た土壌などを運び込む中間貯蔵施設を設置する議論は、原発事故当時の民主党政権下で始まった。政府側のキーマンだった元環境相の細野豪志は、県や双葉郡8町村との交渉について口を開いた。

 首相だった菅直人による2011(平成23)年8月の佐藤雄平前知事に対する施設設置の要請。佐藤は「突然の話。非常に困惑している」と受け止めたが、政府内ではどのように議論が進められていたのか。

 細野は「個別のことは控えようと思います」と明言は避けたが、「常に県側にはいろいろなレベルで、何らかの形で最新の状況を伝える努力はしていた。情報を隠しておいて突然出すことはやるべきでないと考えていた」と述べ、要請前に何らかの根回しがあったことをにおわせた。

 細野は11年10月、県と双葉郡8町村に対し、政府の「基本的な考え方」を伝えた。その中には、汚染土壌などを30年以内に県外で最終処分することが盛り込まれていた。細野は「県外最終処分は県側の強い意向だった」と明かす。

 青森県にある原発の使用済み核燃料再処理施設を引き合いに出しながら「青森県も最終処分場ではないということを前提にしている。県側の意向は当然で、それを受け止めた」とした。30年の期限については「環境省内で相当議論し、一つの目標として設定しようということになった」と語った。

 ただ、県外での最終処分は、土壌などを再利用して十分に量を減らすこと(減容化)を大前提にしていた。現在のように再利用が進まず、施設にたまり続けている状況を「当初の想定と違う。進んでいないことを危惧している」と述べた。

 個性違う首長に説明

 議論を進める上で、県知事の佐藤雄平と大熊町長の渡辺利綱、双葉町長の井戸川克隆への対応が鍵だったと振り返る。細野は「それぞれ全く個性が違ったので、皆さんとどう向き合い、説明するかが私のやらなければならないことだった」と振り返った。

 設置に向けた協議は民主党政権下ではまとまらず、自公連立政権の15年に確定する。結果的に、中間貯蔵施設は大熊、双葉の両町に整備された。中間貯蔵施設に運び込む土壌などよりも低レベルの廃棄物の処理関連施設は、富岡、楢葉の両町が引き受けた。原発立地の4町にほかならなかった。

 原発事故から間もなく10年。中間貯蔵施設を巡る課題は何か。細野は「汚染土壌の減容化を進めても、最後に再利用できないものが残る。それを原発構内の廃棄物と一体化して、どう処分するかを議論する段階だろう」と指摘した。(敬称略)

 【細野豪志元環境相インタビュー】

 民主党政権の原発事故担当相、環境相として本県の復興政策に関わった細野豪志氏(49)に、東京電力福島第1原発事故に伴う放射線の基準値決定の経緯や中間貯蔵施設の交渉の内幕などについて聞いた。

 「自分だったら生活できるのか」避難指示の判断基準

 ―放射線の基準はどのように決めたのか。
 「国際放射線防護委員会(ICRP)の基準をベースにする話だったが、基準自体(管理目標)に幅があった。最終的にどういう基準にするかというのは非常に難しい判断だった」
 「当時の(原子力規制機関である)原子力安全・保安院の危機管理の体制が脆弱(ぜいじゃく)だったので、手探りの中、基準をつくる形になった。当時の原子力安全委員会の班目春樹委員長を中心につくっていたという印象だ」

 ―広範囲に放射性物質が拡散するような事故への備えはあったのか。
 「率直に言うとシビアアクシデント(過酷事故)は想定していなかった。避難の訓練や基準も含めて。いろんな面で不十分だった」

 ―原発事故の避難について当初、原発から同心円状に指示した。その後、線量に基づく避難に切り替えるが、基準を議論したのは原子力被災者支援チーム。細野氏も参加したと聞いている。
 「かなり頻繁にやっていた。原発から半径10キロに避難指示を出した時などは正直、線量を測ることができていなかった。社会的にどうコントロールしていくか、という点から言ってもやむを得なかったところがある」
 「年齢によっても全く(放射線被ばくの)リスクは違うので、高齢者の皆さんに残っていただくことも若干議論になった。しかし、高齢者だけを残して若い人が避難するとなると、医療や看護などを含め実質的に難しいので、割とシンプルな形にした」

 ―避難指示の基準を年間20ミリシーベルトにした背景は。
 「避難というか居住区域の基準について、20ミリシーベルト以外の議論はほとんど出なかった。ICRPの基準が明確に20ミリシーベルトになっていたので、それ以外の基準というのはなかなか見いだしにくかった」
 「あとは20ミリシーベルトということを(1時間当たりの空間)放射線量でどのようにするかという議論があってそこは非常に保守的に決めた。(毎時3.8マイクロシーベルトという設定は)実際に長く生活しても20ミリシーベルトにいかないような基準だったと思う」
 「基準の決定が人ごとだと無責任になるので、私は『自分だったらそこで生活できるか』とか『自分の子どもがいた場合にその基準を選ぶかどうか』ということを判断基準にしていた」

 デマ、信じて言っている人とあえて言う人

 ―2011(平成23)年12月に報告書がまとまる「低線量被ばくのリスク管理に関わるワーキンググループ」を設立したが、どういった理由か。
 「この時期には除染をすでに始めていたので、除染についての考え方を整理した方が良いと思った」
 「具体的に何を議論したかというと、長期的な除染の基準として年間1ミリシーベルトをどう考えるかということや、除染の優先順位など。1ミリシーベルトを長期的な目標にするというのは、福島県側の大前提だった。当時の佐藤雄平知事も譲らなかった。非常に強い意向だった」

 ―1ミリシーベルトについて、どのように考えていたか。
 「1ミリシーベルトを目標にすると、例えば『健康の被害が1ミリシーベルト以上では出るのではないか』とか、『1ミリシーベルトにならないと帰還できない』という解釈につながらないかと懸念した。それだけは避けなければならないと思っていた」
 「放射線管理区域の基準が1ミリシーベルトなので、それとの整合性も問われた。やはり長期的には1ミリシーベルトしかないだろうとなった。学校や通学路、生活空間などを優先して除染すべきであるとの提言もいただいた。除染を国家プロジェクトとしてなんとか早く始めたかったので、佐藤知事とはかなり水面下の議論をした」

 ―だが、懸念通りに「20ミリシーベルトは安全なのか」や「自分たちに(平常時の管理目安の上限である)1ミリシーベルトは守られないのか」という反応が出た。政策を決定した側から、どのように見ていたか。
 「事ある度に健康の基準や安全の基準とは全く違うものだということを言っていくしかなかった。もう少しきちんと言っても良かったと思っているのは、健康被害などの問題についてのデマへの対応だ。原発事故を起こしたのは政府という、責任ある立場だったので反論しにくかった」
 「科学に基づかない言説には二つあった。信じ切って言ってしまっている人と、あえて言っているような人がいた。両方に反論しないと基準は一人歩きしてしまう。そこのリスクコミュニケーションが難しかった。その基準をつくるのが低線量のワーキンググループの目的だった」

 原発敷地内の廃棄物、処理法を考える時期

 ―中間貯蔵施設について聞きたい。公には11年8月、当時の菅直人首相が佐藤知事に要請したのが始まりとされている。知事は「突然の話」と反応した。政府ではどのように議論していたのか。
 「時間はたっていますが皆さんそれぞれお立場がある。個別に何をどうしたかということは控えようと思う」
 「ただ、常に県側には、いろいろなレベルで、何らかの形で最新の状況を伝えるという努力はしていた。重要なのは説明をしっかりすることだと思っていたので、情報を隠しておいて突然出すということはやるべきではないというのが私の考え方だった。それをどう受け止められていたかは、私の方では何とも」

 ―大熊町長だった渡辺利綱氏や、双葉町長だった井戸川克隆氏もさまざまな話を受けたと証言している。
 「確かにその3人。渡辺町長と井戸川町長、あとは佐藤知事。それぞれ全く個性が違いました。それぞれの皆さんにどう向き合い、どう説明するかが私の課題だった。私自身がやらなければならないことだった」

 ―11年10月には、政府が中間貯蔵施設の基本的考え方を示す。その時に汚染土壌を30年以内に県外搬出することが盛り込まれた。
 「県外最終処分は県側の強い意向だった。それは当然だと思う。問題は違うが、青森県もそうですよね。いろんな(原発の核燃料の再処理施設に関連した)ものを置いているが、最終処分場ではないということを前提にやっている。福島県側の意向は当然だと思い、それを受け止めた。30年は、環境省内で相当議論して、一つの目標として設定しようということになった」
 「ただ、大量の廃棄物を全て持ち出すのは現実的でない。当初から(線量が下がった汚染土壌を)再利用して減容化することが大前提だった。しかし、再利用や減容化(の必要性)にどれだけ理解を得られていたかは、十分でない面があるかもしれない」

 ―12月には双葉郡内への設置を要請したが、この時、政府内では絞り込みの感触はあったのか。
 「絞り切れていないところはあったが、ある程度の役割分担をお願いするしかないと思っていた。大熊、双葉、楢葉、富岡、第2原発も含めると(原発の)立地(自治体は)は4町。4町にそれぞれ一定の役割をお願いするしかないかなという話はしていた」
 「実際に楢葉と富岡には(低い線量の放射性廃棄物の)焼却施設などをお願いすることになった。一つの町だけに集中することがないよう、全ての負担が大熊、双葉にいくことのないようにということで、それぞれの町長にお願いした。だから富岡の遠藤勝也町長(14年に死去)の判断は非常にありがたかった」

 ―廃棄物を集める管理型処分場を引き受けたことか。
 「ええ。遠藤町長は双葉郡のまとめ役として、政府と一緒になんとか乗り越えていこうという雰囲気をつくってくださった。処分場についても早い段階から引き受けようと動いていただいていた」

 ―他の首長の反応はどうだったのか。
 「(廃棄物保管庫などについて)楢葉町の草野孝町長は積極的だった。お辞めになった後、町議会議長だった松本幸英氏が町長になられ、安定的に進めていただいたと思う」
 「大熊町の渡辺町長には驚いた。中間貯蔵施設を引き受けると同時に、帰還できる場所として大川原地区の再生を政府が責任を持ってやるように当初から主張されていた。11年の段階だったと思う。われわれも簡単に帰還できる場所だろうかと半信半疑だったが、今の地域再生の結果を見ると、すごいビジョンを持たれていた」

 ―双葉町の井戸川町長についてはどうか。
 「避難場所が遠かったというのもありますよね。最後は(埼玉県の)加須まで行かれた。皆さんそれぞれ思いがあった。その原因が政府にあることは明確だ」

 ―間もなく原発事故から10年になる。最終的な県外搬出に向けた中間貯蔵施設の課題をどう見るか。
 「緊急課題は(汚染土壌の)再利用。非常に危惧している。施設にたまり続けている状況は想定していなかった。環境省が、安全にできることを説明しなければいけない。放射線量は下がっているので再利用、減容化はできるはずだ」
 「そろそろ議論しなければならないのは、原発敷地内の放射性廃棄物。中間貯蔵施設で最後に残る再利用できないものと一体として、どう処理するかを考える時期に来ているのではないかと思う」