【証言あの時】前飯舘村長・菅野典雄氏 ゴーストタウンにしない

 
菅野典雄前飯舘村長

 「ゴーストタウンにならないようにしながら、住民をちゃんと避難させる方法はないか」。2011(平成23)年4月10日、福島市の知事公館で、飯舘村長の菅野典雄の頭脳はフル回転していた。目の前にいるのは官房副長官の福山哲郎。飯舘村を1カ月以内で避難させる「計画的避難」が言い渡された瞬間だった。

 飯舘村は、東京電力福島第1原発から西北に約30~50キロに位置する。原発事故後、3月15日ごろに放射性物質を含んだプルーム(雲)が通過し、空間放射線量が高くなっていた。菅野はこの頃、官房長官だった枝野幸男の口調が微妙に変化していくのをテレビの画面越しに気付いた。

 原発から30キロ以上に、避難指示を広げない―という政府の姿勢が揺れているように感じた。「30キロの線を飯舘まで広げたいのではないか」。菅野の予感は、想像を超える形で的中した。何らかの避難は覚悟していたが、突き付けられた現実にたじろいだ。

 だが、菅野はとっさに福山に提案した。「計画的避難と言うからには、期間だけではなく、その中身で考えることがあってもいいでしょう」。その時は粘りに粘って2時間問答したが、話は平行線のまま。村に帰った菅野は、具体的な対策を練り出す。

 避難により体調悪化が避けられない特別養護老人ホームの高齢者について、村内で介護を続けることはできないか。村内にある企業は、屋内であれば避難の目安である年間20ミリシーベルト以下の被ばくで操業が可能ではないか。菅野の必死の説得と交渉に、政府は特別の事業継続を認めた。

 住民避難では、政府から数百人単位に分かれた県外避難を打診されたが、菅野は「村から車で1時間以内」の場所への避難にこだわった。村民に密着した丁寧な行政を通じて「までいの村」と言われたコミュニティーを維持することが目的だった。

 政府や県、近隣自治体の協力を得ながら避難が完了したのは、計画的避難区域となってから約2カ月後のことだった。役場は、福島市飯野町に移した。菅野は「村民から被ばくのモルモットにするのかとの批判も受けたが、何かあればすぐに集まって相談できる環境を整えることができたのは大きかった」と振り返る。

 「避難しながら村を守っていこう」。菅野は、住民による地域防犯パトロール隊や期間を区切っての「特例宿泊」などのアイデアを政府に提案し、実現させた。これらの取り組みは、後に飯舘村以外の被災自治体にも適用される政策として定着していった。

 飯舘村は17年、帰還困難区域の長泥地区を除き、帰還を果たす。菅野は「困っている時に助けてくれる人がいた。そのような物語がたくさんありました」と静かな笑みを浮かべた。(敬称略)

  【菅野典雄前飯舘村長インタビュー】

 前飯舘村長の菅野典雄氏(74)に、2011(平成23)年の東京電力福島第1原発事故による計画的避難の状況や帰村までの取り組みを聞いた。

 ―東日本大震災が発生した時、どこにいたのか。
 「福島学院大の評議員を務めていたので福島市で開かれる会議に車で向かっていた。伊達市の交差点で止まっている時、尋常ではない揺れを感じた。信号が変わると、すぐにUターンして村に戻り、災害対応に当たった」
 「(村内で)建物の倒壊のような大きな被害はなかったが、停電した。役場では自家発電でテレビをつけていたので原発事故があったことを知った。双葉郡は大変なことになっていると思い、避難してくる人を村内の施設で受け入れた」

 ―原発事故の影響を感じたのはいつごろか。
 「どこかの公的な機関が、役場前に測定器を取り付けてくれていた。3月15日の夕方に、毎時44.7マイクロシーベルトの空間放射線量が計測された。初めて聞く単位だったが、ある程度高い数値になっていることが分かった」
 「そのうちに、南相馬市から避難してくる車が村内を夜昼となく通過していった。相馬市の立谷秀清市長らと、政府の避難指示がない限りは落ち着いて行動しようと話していたが『約束を守れなくなった。希望者を避難させようと思う。理解してもらいたい』と電話したことを覚えている」

 ―最初の避難はどのように実施したのか。
 「村民から希望を取り、3月19、20日の2日間で約550人に栃木県鹿沼市に避難してもらった。長距離の移動が難しい妊産婦や新生児は福島市の旅館に頼み込んで受け入れてもらった」

 ―研究者による環境調査などがあったと聞いたが。
 「研究者の主張は『もう村には放射能(放射線)の影響が広がっており、住めるところではない。原因は政府なのだから、県外に20年ぐらい移って戻ってくればいい』という話だった。私は『6000人近い村民の責任者として、それは現実的ではない』とお断りした」
 「そのようなことがあった頃、(当時の)枝野幸男官房長官の会見をテレビで見ていた。『避難指示は原発から30キロ以上に広げるつもりはない』と言っていたのだが、ある時期から言い方がおかしくなってきた。(30キロ以上離れ、線量が高い)飯舘を(避難指示に)入れたいと思っているなと。何とかしなければと考えた」

 ―どう対応したのか。
 「村を訪れた小泉龍司衆院議員に話したら『福山哲郎官房副長官(当時)を知っているので話してみては』と言って段取りをしてくれた。4月7日に福山氏と官邸で会い『除染のモデルのような形での村の復興をお願いしたい』と訴えた。福山氏は『分かるけど、何せ人命が大切だ』と言う。その日はそのまま帰ってきた」

 政府が「20年帰れない」みんなの前でぼろぼろ涙

 ―その後どうなったか。
 「9日に福山氏から『会って話がしたい』と連絡が来た。村役場に報道機関が集まっていたので『大騒ぎになるから福島市で会いましょう』と答えた。10日に福島市の知事公館で会うことになった」
 「知事公館には、福山氏のほか、松下忠洋経済産業副大臣(12年に死去)らがいた。福山氏は『飯舘村は(被ばく線量が)年間20ミリシーベルトを超える可能性があるので、計画的避難という名前でおおむね1カ月以内に避難するように』と言った」

 ―どのように感じたか。
 「全員避難は想像していなかった。それで『計画的ということだから、期間だけではなく中身で考えることもあっていいんじゃないですか』と言って粘った」
 「具体的な案があったわけではなかったが、全員避難となればゴーストタウンになる。だから、少なくとも何か動きをつくりながらゴーストタウンにならないように、さらに住民をちゃんと避難させる方法はないかと考えた。2時間粘ったが、答えを得ることはできなかった」

 ―どのような対応を取ったのか。
 「いろいろと会合を開く中で、室内の線量は低いという情報が入ってきた。計算してみたら、室内で8時間ぐらい働けば(避難指示の目安となる)年間20ミリシーベルトを超えない可能性がでてきた。室内の仕事だけで収まる業者に手を挙げてもらったところ、8社あった」
 「飯舘よりも先に避難した自治体では高齢者が体調を崩したり、亡くなったりしていた。そのため、村の特別養護老人ホームは避難させないことにした。具合を悪くしたり、死期を早めたりするようなことを、政府がやる話なのかと訴えた」

 ―政府の反応は。
 「民主党幹事長だった岡田克也氏が視察に来た。話の最後に『特老を見せて』と言ってきた。『検討してもらっているんだ。脈がある』と喜んだ。それからしばらくして『特別のことで許可します』と連絡が来た。異例の判断だったと思う」

 ―住民避難では何を心掛けたのか。
 「官邸に行った時に『長野県に500人、何県には何百人(引き受けるところが)あるので、そこに避難して』と言われたが、断った。村に帰って職員に『車で1時間以内に、どこでもいいから避難先を探して』と指示した。公的な宿舎や仮設住宅など、9割以上の住民を1時間以内の場所に避難させることができた」
 「ただ、避難には2カ月かかった。住民から『(被ばくの)モルモットにする気か』とか言われたが、飯舘は20行政区のコミュニティーを土台にしてきた。すぐに集まることができる環境をつくったことが、後に大きな意味を持った。福島市にお願いして役場を飯野の支所に置かせてもらった。避難で生活が悪化するリスクを防ぐことを考えていた」
 「地域で説明会を開いている時『政府が避難地域は20年帰れないと言っている』と連絡があった。避難している最中にそういう言い方をするのかと、みんなの前でぼろぼろと涙を流してしまった」

 ―この頃「までいな希望プラン」を発表するが。
 「避難の期限を2年ぐらいにしたいと書いた。先行きは分からなかったから、期限は書かない方がよかった。しかし、何か希望を持ってもらうことが必要と思い2年と書いた。(避難の期限については)うそになってしまったが、書いた内容を実現できたと思う」

 ―避難中、村のコミュニティーが壊れないように取り組んだことは何か。
 「避難先で村民をしっかりと受け止めてもらえないと、避難はさせられないと考えていた。(避難前の)5月9日に村を訪れた(当時の)総務相の片山善博氏に『二重住民票のような仕組みができませんか』と訴えた。片山さんは事務方に対応を指示してくれた」
 「選挙権などの問題があり、二重住民票そのものは実現しなかった。ただ、片山氏の指示を契機に、後に避難を受け入れた自治体に、避難者1人当たり4万2000円の特別交付税が出る制度ができた」

 生活の発想変えないと助けもらった思い無駄に

 ―村民によるパトロールを行った。
 「村をどうやって守ろうかと考え、村民にパトロール隊をつくってもらうことにした。政府の緊急雇用対策費を使って24時間、3交代で実施した。車で1時間以内に避難しているからできた。元々住んでいた地区を担当してもらった」
 「当時の飯舘は『行ってもいいが、泊まっては駄目』だった。ところが、家の様子を見に来て泊まる人たちがいた。地区の事情に詳しい人が巡回しているからすぐ分かり、口論になった。当時の政府原子力災害現地対策本部長の赤羽一嘉氏(現国土交通相)に『住民同士をけんかさせている場合ではない。堂々と泊まれる制度を作って』と頼んだら、正月の特例宿泊が始まった」
 「住民のパトロールや特例宿泊は飯舘から始まり、他の地域にも適用された。特例宿泊は正月からお盆などにも対象が広がった。赤羽氏は正月に飯舘のわが家を訪れて『村長、どうだい』と言ってくれた」

 ―12年7月に、村は帰還困難区域と居住制限区域、避難指示解除準備区域の三つに再編されたが。
 「政府は、放射線量に応じて村内を三つに分けようとしたが、私は区域分けを行政区単位で行うよう政府に申し出た。対象となる世帯が一番多い区域に区分するルールで住民と合意した。膝詰めで話すことができる環境が役に立った」
 「飯舘のさまざまな取り組みは、県や国から派遣された人が地元の思いを形にできるよう動いてくれた結果だ。困った時に助けてくれた人がいた。そのような物語がたくさんあったのです」

 ―全村避難を経験した首長として、原子力災害の特徴をどう見ているか。
 「百人百様ということです。(放射線を)危ないというのも、その人の正しい判断。大丈夫というのも、その人の正しい判断。そのような中で物事を決めていかなければならないというのは大変な話だった。『せめて専門家だけでも考え方をまとめてほしい』と何度も思った」

 ―震災と原発事故から間もなく10年となる。伝えたいことは何か。
 「復興事業に追われ、一番大切なことを忘れているのではないか。原発事故の被害を二度と他の人に与えてはいけないということだ。成長第一の社会ではもっと物が欲しい、もっとエネルギーが欲しいとなる。コロナ禍で指摘されている『新しい生活』は、本当は原発事故から考えていかなければならなかった。10年たっても同じ発想でいるのでは、私たちの苦労が無駄花になると心配している」