【証言あの時】楢葉町長・松本幸英氏 『以降』取れ...政府圧力

 
松本幸英楢葉町長

 「町民に寄り添うことを基本としていたが、政治判断をしなければならない時があった」。国道6号を多様な車が行き交い、東日本大震災前の姿を取り戻しつつある楢葉町。町長の松本幸英は、慎重に言葉を選びながら複合災害に向き合ってきた思いを語り出した。

 2011(平成23)年3月12日、楢葉町は東京電力福島第1原発事故を受けいわき市に全町避難した。その後、町は警戒区域の指定を受け、町民は避難生活を余儀なくされた。町議会議長だった松本は「マイナス状態の町をゼロ、そしてプラスに戻す」と古里の再生を訴え、12年4月に行われた町長選で初当選した。

 間もなく直面したのは、町が候補地の一つになっていた中間貯蔵施設の問題だった。「極めて厳しいな」と考えていた松本は、町長就任後に頻繁に町政懇談会を開き、町民の意見を聞いた。そして14年1月、当時の知事の佐藤雄平に、町は高濃度の汚染廃棄物の受け入れは応じられない―として、楢葉町を除くような中間貯蔵施設の計画変更を要請する。

 松本の意向を受け、政府は中間貯蔵施設を大熊、双葉の2町に集約することを了承する。町の復興に関わるこの大きな政治判断について、松本は「他町村のこともあるし、言えないことがある」と、今も核心部分について口を閉ざした。

 次に直面したのは、警戒区域から「避難指示解除準備区域」になっていた町の避難指示の解除だ。松本は14年5月、解除に必要な判断基準としてインフラ復旧など24項目を挙げながら帰町判断を「15年春以降」とする考えを表明する。

 松本は「生活に必要な条件が整うことは容易ではない」として、あえて曖昧な時期設定にした。しかし、これに政府関係者が「以降を取れ」とかみついた。双葉郡の中でも放射線量が低かった楢葉町の早期避難指示解除は、政府にとっても重要な意味を持っていた。松本はその圧力を「すごいものだった」と振り返る。

 だが、松本は妥協することなく、条件をクリアしていくことにこだわった。当時の課題の一つに、避難指示が解除されると打ち切られる月額10万円の精神的損害賠償があった。被災者には「解除後の生活はどうなるのか」と不安があった。松本は、政府の原子力損害賠償紛争審査会や有力政治家に打開策を働き掛けた。

 15年6月、政府は「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」について、解除の時期にかかわらず18年3月まで精神的損害賠償を支払う方針を決定する。松本は他の条件も考慮した上で、15年9月5日の避難指示解除受け入れを決断した。

 松本は「あの時、町はようやくゼロに近くなった」と語った。(敬称略)

 【松本幸英楢葉町長インタビュー】

 松本幸英楢葉町長(60)に、町が候補地の一つになっていた中間貯蔵施設の問題や町の避難指示解除に至る経緯などを聞いた。

 美里に避難受け入れ要請「町長名代で行く」

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の発生時はどこにいたのか。
 「当時、町議会議長を務めていた。3月定例会が終わり、自宅にいる時に揺れが来た。町役場に駆け付けると、災害対策本部ができていた」
 「以前、広野火力発電所の防災を業とした企業に勤めていたこともあり、当時の草野孝町長から『顧問的な立場でいてくれ』と頼まれた。その後は、町災害対策本部と行動を共にした」

 ―12日に楢葉町はいわき市に全町避難するが、どのような経緯だったのか。
 「12日朝、警察官が役場に来て『避難してくれ』と言ってきた。私は『避難指示は県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)から出るはずではないか』と指摘した記憶がある。しかし、草野町長に『警察が避難してくれと言うのはただごとではない。準備した方がいい』と進言した」
 「いわき市へ避難を考えたが一般回線で市役所に電話してもつながらないと思った。そこで懇意にしていた当時の渡辺敬夫市長の携帯に電話した。草野町長が代わり、渡辺市長に受け入れを要請した」

 ―16日には町民の一部が会津美里町に避難するが。
 「いわき市の避難所は多くの町民で飽和状態になった。草野町長に『姉妹都市の会津美里町に避難受け入れをお願いしては』と申し上げた。町長は『それなら俺が行く』と言ったが、現場が騒然としていたので『町長はいて。私が名代で行く』と言い、15日に会津美里町に向かった」
 「会津美里町の渡部英敏町長は、受け入れを即答してくれた。その時に『町議会であいさつしてくれ』と言われた。他町の議会であいさつするのは異例と思った。町長の名代として避難をお願いし、正式に受け入れていただいた」

 ―当時の楢葉町民の状況はどのようなものだったか。
 「いわき市や会津美里町のほか、県内外の知人宅に身を寄せるなど(町民は)分散している状況だった。受け入れていただいたいわき市や会津美里町には感謝の念しかない」

 中間貯蔵と指定廃棄物、二つともというのは

 ―避難が続く中、政府は町を4月に警戒区域に指定し、12月には双葉郡内への中間貯蔵施設の設置を打診してくる。中間貯蔵施設について草野氏から何か聞いていたか。
 「世間話的にちらほらと聞いた記憶はあるが、町長として議会に説明してくるとか、そういう正式な形では聞いたことはない」

 ―草野氏は放射性廃棄物の管理施設など受け入れに前向きだったとの証言があるが。
 「正確に聞いていない」

 ―楢葉町が大熊、双葉両町とともに候補地として名前が挙がった。議長の立場で政府から打診を受けたことは。
 「それはありません」

 ―では、楢葉町が施設の候補地に挙がっていることをどう感じていたか。
 「極めて難しいだろうなとは考えていた」

 ―12年4月の町長選で初当選した。当時の心境はどのようなものか。
 「楢葉はゼロではなくてマイナスの町だったので、それをゼロに戻して、プラスに持っていきたいという思いだった。『まずは原風景を取り戻す』と訴えて選挙戦に臨み、それを支持していただいて今日まできているわけです」

 ―当時の町の課題は。
 「町民が散り散りになっていたので、まずは多くの声を聞いて町政に反映させることだった。早い段階で町政懇談会を34回開いた」

 ―12年8月、楢葉町は警戒区域から避難指示解除準備区域になった。同時に楢葉町への中間貯蔵施設設置の流れが加速したと思うが。
 「いつの時点だったかは定かではないが、双葉地方町村会という形で要請があったことは覚えています」

 ―他の候補地では、政府が首長にそれぞれ打診をしているが、楢葉町はどうか。
 「私が就任してからは、直接どうこうというのはあんまり記憶がない」

 ―自公連立政権が誕生してから、13年12月に改めて、政府が楢葉など3町に中間貯蔵施設の設置、富岡町に指定廃棄物の処分場受け入れを要請する。この時に個別の話はあったのか。
 「ここは際どいので言葉を選ばなくてはいけないけど、双葉の町村会に振られて、意見集約をしたということでしょうね」

 ―次は楢葉町独自の判断になる。政府要請の1カ月後の14年1月、当時の佐藤雄平知事に中間貯蔵施設の計画見直しを申し入れる。どのような背景があったのか。
 「何と言ったらいいのかな。(当時の設置計画の)双葉、大熊、楢葉の面積を比較すると、双葉と大熊が大きかった。そういうことも踏まえて、集約できないかとは思った」
 「当時は、中間貯蔵の他にも、町内で指定廃棄物の処分場の話も同時進行していたのです。二つともというのは、町民も受け入れ難いと判断したこともあったのだが」

 ―計画見直しの考えを他の町村と相談したのか。
 「さあ、どうだったか」

 ―政府の誰かには相談したのか。
 「それも、どうだったか、としか言えない」

 ―政府は後に楢葉町が外れる形での施設計画見直しを了承する。当時はどのような思いだったか。
 「中間貯蔵と処分場の二つがあった中では、到底町民に受け入れられないことは想定していましたから。その一つが排除されたということに一定の安堵(あんど)感がありました」

 ―中間貯蔵施設を巡る議論については、まだ言えないところがあるのか。
 「複雑な話であるし、他の町村の話もある。そこは分かってもらいたい」

 賠償延長受けて、解除判断したわけではない

 ―楢葉町の避難指示解除に至る経緯について聞きたい。14年3月に帰町計画を作り、5月には帰町についての考え方を示した。
 「どのような条件がそろえば帰ることができるのかという視点で(インフラの復旧など)24項目を設定して検証した。その上で5月に『早ければ15年春以降』という帰町判断を示した」
 「時間的余裕が必要だと考えての表現だったが、『以降を取れ』って、それはもうすごかったですよ。『15年春まではいいが、以降では永遠に続くではないか』とね」

 ―もっと早い段階の解除意向を示してくれと言われたということか。
 「そうです。でも、あくまでも帰町できる環境をクリアできたときに判断する考えだった」

 ―14年6月に、JR常磐線が竜田駅(楢葉町)まで再開した。7月には住環境の回復事業も始まる。この頃の町民の受け止めは。
 「インフラであるとか、除染作業が一気に進んできたということが、町民にも見えていた。復興の期待感がちらほらと出てきたようになったと感じはしました。私が特別に先行して1月に戻った時は、見事に街路灯一つない真っ暗な町だった」

 ―避難指示解除準備区域を解除するという議論はいつごろ本格化したのか。
 「15年の春ごろと思う」

 ―当時の課題は何か。
 「少し話はさかのぼるが、(12年8月に)町が立ち入りできない警戒区域から避難指示解除準備区域になった時、住民の間では『復興だ』という感じだった。しかし、賠償の話が入ってきて『見直しは早い』と雰囲気が逆転してしまった。町民に寄り添うのは当然ですが、時と場合によっては政治判断をしなければならない時もあった。あの時は一つの町の起点だった」
 「準備区域を解除する前の段階で、町民が楢葉に来て自分の家を見ると荒れている。補償してほしいという話があった。賠償が不十分なので、当時、政府の原子力損害賠償紛争審査会の会長だった能見善久氏に足を運んでもらい、改善してもらった」

 ―避難指示が解除されれば打ち切られる「精神的損害」について、政府が15年6月に「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」は解除時期にかかわらず、18年3月まで支払う方針を出した。それは大きかったか。
 「大きかった。ここまでくれば、賠償についてはある程度理解を得られるだろうという思いはあった」

 ―精神的賠償の期間についても相談したのですか。
 「しましたね」

 ―政治サイドにも働き掛けましたか。
 「しましたね」
 「誤解されては困るが、賠償が決まったから判断したわけではない。さまざまな条件が整ったからだ」

 ―さまざまな条件を確認して15年9月の避難指示解除を受け入れたが、その時はどのように感じたか。
 「何というんですかね。町がようやくマイナスからゼロに近づいたというか。これから本当の復興が始まるぞという感じだった」

 ―震災から間もなく10年となる。町の復興をどのように見ているか。
 「ハード面はほぼ完成に近づいた。10年の節目以降はステージが変わり、新しいことを考えながら進むようになると思う。着実に復興を前に進めていきたい」