【証言あの時】相馬市長・立谷秀清氏 相馬の崩壊は日本の崩壊

 
立谷秀清相馬市長

 「相馬が崩壊すると、日本が崩壊する。踏ん張らないといけない」。2011(平成23)年3月17日、相馬市長の立谷秀清は災害対策本部で檄(げき)を飛ばした。複合災害の最前線に立ち、住民の命を守ろうとする首長の決意の言葉だった。

 3月11日、立谷は市役所で東日本大震災の激しい揺れを感じた。津波の襲来を警戒し、すぐに消防団に住民の避難誘導を指示した。日没が迫る中、「津波が国道6号を越えた」など、信じられないような被害情報が次々と飛び込んできた。

 「広域的な大災害だ」と考えた立谷はすぐに対応、12日未明の災害対策本部で仮設住宅の用地確保などを含めた行動計画を作り上げていた。しかし、明け方に目の当たりにした沿岸部の惨状は想像を超えた。見慣れた風景はもうなかった。立谷は「がっかりする余裕はなかった。災害対応を指揮しなければならなかった」と、その日を振り返る。

 12日に東京電力福島第1原発1号機、14日には3号機が水素爆発するが、県議時代に原発について学んだ立谷は「核爆発ではない。相馬への影響は少ないだろう」と見切った。市内で放射線量の増加もあったが、医師でもある立谷は「健康リスクは高くない」と判断し、腰を据えて被災者支援に当たった。原発事故から逃れてくる南相馬市民を受け入れ、相馬市は浜通り北部の最前線基地となった。

 胆力と知識で奮戦していた立谷だが、14日夜に生涯忘れられない体験をする。ガスマスク姿の自衛隊員らが、いきなり市役所に入ってきた。司令官は「今すぐ相馬市民を避難させてください。われわれがエスコートします」と通告した。政府関係者や県に連絡したが、状況はよく分からなかった。

 立谷は悩んだ。頭の中は「夜中に避難させたら、何人死ぬか分からない」と避難を否定する考えが6割、「自分の知識で及ばないことが起きているから自衛隊が来たのでは」と揺れる気持ちが4割だったという。しかし、不思議と口が勝手に動いた。「避難命令は出さない。帰ってほしい」。自衛隊員は整然と出て行った。この避難指示は後日、誤りだったことが分かる。

 その後、立谷は仮設住宅の運営などで被災地のモデルとなるような事業を進める。しかし、大きな心残りがあった。自分の指示で避難誘導に当たり、命を落とした消防団員の遺児への対応だ。団員以外の死者の遺児も合わせれば、51人の震災孤児がいると分かった。

 「必ず面倒は見る」と決意した立谷は、修学支援の基金を創設。原資となる5億円を寄付で集めた。「震災前より良い相馬にしないと、死んだ人の供養にならない」。立谷は今も復興の先頭に立つ。(敬称略)

 【立谷秀清相馬市長インタビュー】

 相馬市の立谷秀清市長(69)に東日本大震災当初の対応や、その後に実施した市独自の復興政策などについて聞いた。

 「津波が国道6号を越えた」まさか内陸に入ってくるとは

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時、どこにいたのか。
 「土地改良区の会議終了後、市役所に戻り、エレベーターに乗ろうとしていた時に揺れが来た。職員に『うろたえるな。机の下に隠れろ』と言っていたが、自分も立っていられなくて柱にしがみついた」
 「最初は地震で家屋が倒壊し、下敷きになった人がいるのではないかと心配した。もう一つの心配は津波だった。ただ、相馬市で明治以降、津波で人が死んだ記録はなかった。災害対策は明治以降の記録で作っていたから、津波で人が死ぬことを想定していなかった」

 ―津波への対応をどう講じたのか。
 「最初の気象庁の発表では、津波は3メートルということだった。可能性だとしても大きな数字だから、消防団に住民の避難誘導を指示した。それ以上のことはできなかった。『そんな津波来ないでくれ』『ちゃんとみんな逃がしてくれ』と、そういう気持ちだった」
 「しかし、実際の津波は3メートルどころではなかった。『6号線を越えた』とか、まさかと思うような内陸の場所に波が入ってきたとの報告が入るわけだ。学校の体育館や教室に避難所を設置して対応した。(津波の)次の死者を出さないために、孤立者の救出を急いだ」

 ―12日未明の災害対策本部では、仮設住宅用地の確保などを指示していたが、どのような判断か。
 「東北(地方の)沿岸がみんなやられていた。対応が遅れたら資財の争奪戦で負けてしまう。闘争的になっていた。『仮設住宅の用地がどのくらいあるか洗い出せ』とかね」

 ―12日朝に沿岸部の現場を見に行ったと聞いた。
 「がれきを乗り越えていくと、風景が一変していたなんてもんじゃない。原釜地区などは何もない『がれき野原』だった。本当にたまげてしまったが、がくっとしている余裕なんてないんだ。災害対策本部長として仕事しないといけないんだから。次から次へと考えなくてはならなかった」

 ―11日夜に民主党政権で官房長官などを務めた仙谷由人氏(18年に死去)から連絡が来たとの記録がある。
 「前からの知り合いで、携帯に連絡をくれた。その後はいろいろなことで連絡を取るようになった」

 ―東京電力福島第1原発の異常はどの時点で把握したのか。
 「最初は人ごとだった。意識したのは12日の1号機の水素爆発から。しかし、県議時代に原発について学んでいたので、核燃料の爆発ではないとすぐに分かった。周辺の人は大変だろうなと思っていたら、南相馬市の住民が相馬市に避難してくることになった」
 「市民とは別の避難所で受け入れることにした。当時の南相馬市長の桜井勝延氏に『(市職員を派遣して)南相馬市民を管理してほしい』と連絡したら、『そんな余裕はない』と断られた。仕方がないから自治労に支援を求めた。南相馬市からの避難者はどんどん増えていった」

 判断するのは自分の責任、隊員に「帰ってくれ」

 ―14日には3号機が水素爆発する。
 「仙谷氏から、原発から同心円状に20キロまでを避難範囲に決めると聞いていた。相馬は原発から40キロだから関係ないと思っていた。ただ、放射性物質が風に乗って拡散してくるのは分からなかった」

 ―市内の放射線量は。
 「公立相馬病院に線量計があったから、市内各所を調べた。災害対応は、リスクの少ない方を選択していくことだ。避難のリスクと放射線の健康リスクを考えたら、線量によるリスクはそれほど高くなかった」
 「玉野地区の線量が高いことが分かったが、政府の(避難指示基準だった)年間20ミリシーベルトにはいかなかった。俺たち医者は年間50ミリシーベルト(の管理線量)で働いてきた。年間20ミリシーベルトで人がおかしくなるわけはないと思っていた」

 ―市の記録などには14日夜、市役所に自衛隊員が来たと記してあるが。
 「あんな思いをしたことはない。これからもないだろう。いきなり市役所に重装備の自衛隊が来た。司令官みたいなのが『相馬市民は今すぐ避難するように』と言う。理由は『上からの命令』と言う」
 「仙谷氏に聞いても、県に聞いても状況は分からないという。判断するのは自分の責任だった。今も忘れられないが、頭の中で『夜中に避難命令を出したらとんでもないことになる。何人死ぬか分からない』というのが6割。(残る)4割は『俺の知識が及ばないような、大変なことが起きているかもしれない』と思うわけだ。だから自衛隊が来ているんではないかと。頭の中が6対4なんだよね。だが結論は出さないといけない」
 「自衛隊員には『避難させるつもりはない。あんたたちは帰ってくれ』『市民会館に待機してくれ。もしもそういうことが必要になったら、そのときは頼む』と言った。口から出る時は10対0になっていた。自分でも不思議だと思った。後から誤報と知ったが、怒っている余裕もなかった」

 ―17日には、災害対策本部で「相馬が崩壊すると、仙台も崩壊する。東京が崩壊する。日本が崩壊する。踏ん張らないといけない」と発言しているが。
 「仙谷氏に言われたんだ。『相馬で(南相馬市の避難指示で生じた)医療崩壊を止めてくれ。あんたのところで何とか止めてくれ』って。言われたのは16日だったと思う。だから次の日会議で言ったんだ」

 ―相馬市は政府の指示がない限り避難しないと決めていたと聞くが、それは避難所などでも言ったのか。
 「言った。みんな動揺していたから。(避難所となっていた市総合福祉センター)はまなす館では、ばあちゃんが何人か来て俺の作業着をつかんだ。『市長、ここさいていいのか。本当にいていいのか」と。『いていい。逃げるときは俺が連れて行くから。安心してここにいろ』と言った。ばあちゃんたち泣くんだよ。今から考えるとドラマみたいな世界だよな」

 ―被災者の生活支援をどのように展開したのか。
 「職員に『全戸の調査をしなさい』と指示した。2人一組で訪問して30分ぐらい膝詰めで話せって。市営住宅に入る人、地力で再建する人、親戚に身を寄せる人、一人一人違う。詳細調査しないと駄目なんだよ」

 俺の命令で父親奪った。子どもに何かしなくては

 ―3月26日には仮設住宅の工事を始めているが。
 「震災直後から準備していたから。避難所に市民がいると思うと、落ち着いて眠れない。当時、血圧を測ってもらったら180あった。これはまずいと。薬を飲んでも下がらない。ところが仮設住宅にみんなが移った段階で下がったんだ。仮設住宅に移るまではしんどかったな、俺も」

 ―仮設住宅では住民の代表を組長、戸長としてさまざまな運営をしたと聞いている。
 「孤独死は絶対出さないようにと考えていた。中村一小の避難所は校長先生が運営し、教室に避難した数世帯の中から級長を選び、支援物資の分配などを行った。『仮設住宅に応用しよう』と思った」
 「仮設住宅はおおむね100世帯に一つの集会所を置いた。仮設1棟に5世帯入るから、そのリーダーを『戸長』にした。戸長の中から集会所当たり1人のリーダーを立てて『組長』にした。その組長が市役所に集まって『組長会議』をやった。そこに俺が出ていろんな話をした」

 ―被災した高齢者が孤立しないような「井戸端長屋」の建設も注目された。
 「震災で1人きりになった高齢者は99人。仮設では目が届くが、復興住宅に入ると一人一人チェックできない。仮設の時のようにお互い助け合って暮らせばいいと思い、建設した。長屋の井戸ではないが、洗濯機を共用にし、談笑する場もつくり、交流できるようにした」

 ―住民の集団移転や災害公営住宅はアパートではなく一戸建てにしたが。
 「津波被害があった原釜地区や磯部地区は漁村だ。俺はそこで生まれたから分かる。アパートや高層住宅なんて(生活に)合わないよ。復興した気分にならない。高層アパートに入ったら仮設住宅と同じ気分だと思う」

 ―震災遺児のサポートにも早い段階で取り組んだ。
 「震災直後の避難誘導で10人の消防団員が亡くなった。俺の命令が子どもから父親を奪ったんだ。波に迫られて彼らは子どものことを思ったはずだ。だから何かしなくてはと考えた」
 「子どもに強く生きてもらうには教育だ。18歳まで毎月3万円の仕送りと、大学の学費と下宿代を考えた。団員の子のほかにも孤児はいて、全部で51人だった。必要な費用は5億1000万円。寄付で集めると決め、実際に2年で集めた」

 ―間もなく震災から10年となる。復興の状況をどのように捉えているか。
 「俺の震災対応は後世が評価するものだと思う。ただ、最初の3年ぐらいはとにかく復旧しなければと思っていた。そのうち考えが変わった。『震災前の相馬市より良くすることが、死んでいった人たちへの供養になる』って。それが復興だよな。震災前より良くしたい。じゃないとあの人たちの供養にならない」