【証言あの時】元復興相・根本匠氏 停滞していた「中間貯蔵」

 
根本匠元復興相

 「最初の1カ月で全ての復興政策の総点検と再構築を行う」。2012(平成24)年12月26日、政権復帰した自公連立内閣で初の復興相に就任した根本匠は、意欲に燃えていた。その心の内には、言い表すことができない悔しさがあった。

 東日本大震災が発生した11年3月、根本は落選中で郡山市にいた。東京電力福島第1原発事故の影響で苦しむ県民の声を間近に聞きながら、なかなか動かぬ政府の姿勢に業を煮やす日々。「自分なら政府をこう動かす」。復興のアイデアが頭の中で渦巻いていた。

 復興相となった根本の最初の難関は、補正予算案の組み替えを就任12日後の13年1月7日、新年度当初予算案を同15日までに出さなければならないという過酷な日程だった。「これまでの政策には原子力災害に対応する視点が決定的に欠けている。やるなら今だ」と、根本は全力疾走に入った。

 19兆円だった集中復興期間(11~15年度)の復興予算枠の25兆円への拡大、本県の原子力災害に特化した交付金の創設などを短時間でまとめ上げた。官僚から「指示通り政策を作るためには作業する時間も必要です。1日だけ休んでください」と懇願されるほどのスピード感だった。

 「復興相は復興の司令塔で、全ての大臣は復興大臣というのが内閣の方針だった。だから、各省庁の局長級を存分に使った」と、根本は当時を振り返る。政策テーマごとに戦略会議をつくり、「なぜできないのか」「できるためにはどうするか」を徹底的に洗い出し、高台移転や土地収用に必要な時間を大幅に短縮するなどの改革を進めていった。

 復興政策の総点検をする中、根本が驚いたことがある。民主党政権が11年8月に本県に打診していた中間貯蔵施設の問題だ。官僚から進展状況を聞いたところ、双葉郡の地図上に候補地を複数の円で記した図が渡された。ただそれだけだった。「土地は点で買うのか、面で買うのかどっちだ」。そう聞いても、答えは返ってこなかった。

 根本は「福島原発事故再生総括担当相」を兼務していたため、環境省が所管する中間貯蔵施設の議論にも関わっていく。環境相の石原伸晃とは「われわれの時代で(中間貯蔵施設の問題を)決めよう」と決意を固めていたという。

 交渉の最終盤、中間貯蔵施設建設受け入れに関わる交付金をどのような内容にするかという段階では、副知事だった内堀雅雄を通じて当時の知事の佐藤雄平の意向を確認し、与党や官邸を動かす役割を担った。

 「とにかく仕事はした」と語る根本。ただ「あの時は、地元に帰るとけっこうきつく当たられたんだけどね」と振り返った。(敬称略)

 【根本匠元復興相インタビュー】

 自公連立内閣の初代復興相として、現在の復興政策の基盤づくりを担った根本匠氏(69)に、それぞれの政策決定の背景などを聞いた。

 原子力災害対応の交付金を財源枠組み25兆円に

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の発生時はどこにいたのか。
 「(09年の衆院選で)落選していたから、地元の郡山市にいた。郡山市から防災対策アドバイザーを頼まれたので、市の災害対策本部に通っていた」

 「あの時、官僚組織が十分に機能していなかった。相談を受けた案件については直接省庁と交渉して解決したが、国会議員でないことの歯がゆさを感じた。前任の平野達男氏は復興相として頑張られたと思う。だが民主党政権は、各省庁を動かすという部分が弱かったのではないか」

 ―12年の衆院選で返り咲き当選し、12月に自公連立内閣の初の復興相に就任したが、事前に打診は。
 「組閣当日の昼、自民党の両院議員総会があった。少し遅れて行くと、安倍晋三氏とすれ違った。その時『頼むよ、復興』とだけ言われた。そのまま午後に(官邸への)呼び込みだった。事前の報道で復興相の候補に自分の名前が挙がり、消えなかった。(当選同期で親交があった)安倍氏は、最初から私と決めていたのだろう」

 ―復興相就任時はどのような状況だったのか。
 「12月26日に就任して、12年度補正予算を『(13年)1月7日までに組み替えて出せ』、13年度の当初予算案は『15日までに出せ』という状況だった。最初の1カ月で復興事業の総点検と再構築をするつもりだったので、勝負と思い年末年始返上でフル回転で取り組んだ。浪人中にやりたいことは決めていた」

 「休まずに登庁しようとしたら、秘書官に『大臣がぽんぽんと指示するので、事務方も作業をする時間が欲しい。だから一日家にいてください』と言われた。家にいて政策の勉強をした。そういうこともあったよ」

 ―復興政策をどのように見直して予算編成したのか。
 「それまでの政策は、東京電力福島第1原発事故に起因する災害への対応という視点が欠けていた。まずは市町村の(復興事業の)要望を積み上げ、19兆円だった集中復興期間(11~15年度)の財源フレーム(枠組み)を25兆円にした」

 「復興交付金は、津波被災地を対象にしていたので使い勝手が悪かった。だから、原子力災害からの本県復興に使うための交付金をつくった。避難を余儀なくされた人が避難先で地域の絆を維持できるような『コミュニティ復活交付金』と、外遊びが制限された子どもの健康を守るための『子ども元気復活交付金』だ」

 「福島市に『福島復興再生総局』を設置し、福島・東京2本社体制とすることも決めた。福島でも(復興事業で生じた課題を)解決できる体制を整えた」

 大臣として陣頭指揮、各省庁直接動かす

 ―旧民主党政権の課題と考えていた官僚組織の運用には、どのように取り組んだのか。
 「内閣の方針は、復興相が復興の司令塔で、全大臣は復興大臣(として取り組む)ということだった。だから、政策テーマごとに大臣の僕が陣頭指揮を執り、関係する各省の局長を集める『タスクフォース』をつくった。よく作業部会と訳されるが、違うんだ。戦略実行部隊だ。復興大臣として各省庁を直接動かした」

 「一番動いたのは住宅まちづくりの分野だ。用地買収から文化財の調査、工事の施工に至るまでの一連の流れを担当する各省の局長を全員集めた。そこで『できないことは何か』『どうすればできるのか』を束ねて議論した。問題意識を共有したことで(各省庁が)同じ思いになり、官僚は一生懸命動いてくれた」

 「用地取得や工事については、不合理と思われる部分を100ぐらい改革したと思う。例えば所有者不明の土地を活用する時、裁判所に財産管理人を選んでもらう手続きが必要だが、これは当初、1カ月かかっていたが、最終的に最短4日間でできるようにした。復興を加速化するため、現場主義を徹底した」

 ―一大臣が、ほかの省庁の局長を自由に使うようなことは今まであったのか。
 「ないと思うな。当時首相の安倍氏が『全ての大臣は復興大臣、復興相は司令塔』と指示したことが大きかった。普通は、自分のところの官僚を呼び出されて使われたら面白くないだろうけど、そういう意識はなかったんじゃないかな。閣内も皆協力してくれた」

 ―13年8月に避難指示区域の「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」への再編が完了するが。
 「区域ごとに重点施策はそれぞれ違うので、風評対策とか(放射線影響の)リスクコミュニケーションなどを組み合わせ、課題を解決するための支援パッケージをつくった。実現に向け『福島再生加速化交付金』という新しい交付金を創設した」

 ―復興相として区域再編に関わったのか。
 「報告はあったが、区域再編そのものは(経済産業相の下にあった)被災者支援チームの業務だった」

 ―復興相は「福島原発事故再生総括担当相」を兼務しており、除染や中間貯蔵施設にも関わるが、当時の状況はどのようなものだったか。
 「中間貯蔵施設、あれはひどかったな。就任した後に状況を聞いたら、官僚が(双葉郡の地図に、候補地の)丸が9カ所書いてあるものを持ってきた。それだけだ。『(土地を)面として買うのか、それとも点として買うのか』『この丸と丸に挟まれた地域はどうするんだ』などと聞いても答えが返ってこない」

 「具体的な方針がほとんど決まっていないのに、13年中には用地取得が終わって、運び込みが14年ごろとか、工程だけが書いてあるんだよ。このままでは絶対に無理だと思った」

 ―では、どのようにして中間貯蔵施設の議論を進めたのか。
 「所管の環境相は石原伸晃氏で、若手議員時代からの長い付き合いだ。石原氏からも『復興庁も協力してくれ』と言われた。それはそうだ。環境省は公共事業をやったことがない。それぞれの事務次官と局長、後は国土交通省の協力も得て月1回会議をやった」

 「最初に決めたのは『工業団地などと同じように面で買おう』ということ。僕が言った。土地を買い取る際に(財物)賠償との関係をどう考えるのかとか、土地を売りたくない人には『地上権』を設定するしかないかとか決めていった」

 中間貯蔵の予算、内堀氏と水面下で折衝

 ―本来は所管である環境省の仕事ですよね。
 「それは一緒にやっているから。土地買収の考え方が決まって次に出てきたのは(大熊、双葉両町で)中間貯蔵に用地がかかった人と、かからない人の間に生じる格差などの問題だ。そこで決めたのが総額3010億円の地域対策費だ」

 「地元向けの交付金1500億円や、福島県全域で使える交付金1000億円などだ。最後に伊沢史朗双葉町長から特に要請されていた、政府としての地域構想をつくった。後の(帰還困難区域で優先的に解除する)復興拠点につながる考えを書いた。それで中間貯蔵受け入れとなる。(交付金だけではなく)プロセスとして美しかったと思う。当時の副知事の内堀雅雄氏と水面下でやっていた」

 ―内堀氏とのやりとりはどのようなものだったか。
 「県はどのくらいで『うん』と言ってくれるのかと思った。最初は環境省の次官だかが佐藤雄平知事(当時)に『1000億円ぐらい』と言ったら、『そんなものか』と怒られたと聞いた。それで内堀氏に『どれくらい必要か』と聞いた。(内堀氏が)『福島は毎年このくらいの行政需要が出るんです。だからその全てとは言いません―』と言うから、こちらも金額を積んで総額3010億円にした」

 「内堀氏を通じ佐藤氏に3010億円を打診し、『うん』となった。しかし、これだけの予算を要求するのは官邸を巻き込まないと無理。自民党復興加速化本部長の大島理森氏(現衆院議長)の協力を得て決めた。あれはまさに政治だった。石原氏とは『自分たちの時代で決めよう』と言っていた」

 ―個別の政策になるが、子ども・被災者支援法への対応はどうだったのか。
 「法律の趣旨は良かったのだが、支援対象の『年間20ミリシーベルト以下であって一定の基準以上である地域』を決める必要があった。しかも立法の趣旨では(基準により)『地域を分断しないように』とある」

 「この『一定の基準』は原子力規制委員会も決められなかった。放射線量で決めれば、線量が下がると支援地域も狭まっていくという問題もあった。そこで、放射線審議会の議事録を読むと『相当の線量があると住民が不安を感じる』というような記述を見つけた」

 「内閣法制局に確認すると『一定の基準』を幅のある『相当の線量』に解釈できるとなった。地域を大きく分断しない中通り、浜通りという区分がある。法律が救済対象とする自主避難者も多くはそこから避難していた。そこで『相当な線量』を基準に中通りと浜通りを対象にした。苦労したな」

 ―間もなく震災10年となる現在、見えてきた課題は何か。
 「復興庁はもう少し司令塔機能を発揮した方がよい。そうすれば充実した支援のある福島は全国を先導する地域になるだろう」