【証言あの時】元復興相・竹下亘氏 俺たちが「悪役」になるんだ

「俺たちが悪役になるんだ。分かっているな」。復興相の竹下亘は、周囲を見回した。復興庁で開かれた政務会議。居並ぶ副大臣の長島忠美=2017(平成29)年死去、大臣補佐官の谷公一、政務官の小泉進次郎らの面々は大臣の次の言葉を待った。「復興事業に地元の自己負担を入れる」。竹下は大仕事を始めようとしていた。
竹下が、根本匠(衆院福島2区)の後任として復興相に就任したのは14年9月。そのころ、政府は集中復興期間(11~15年度)後の復興政策をどのように展開していくかの議論を水面下で始めていた。竹下は就任後、事務方から「総理の判断材料になるものを決めていただくのが、大臣のお仕事です」と伝えられた。
政府の復興期間は20年度まで。被災地を歩き、住民の意向調査の推移などを確認した竹下は「震災から5年で被災者の気持ちはだいぶ変わっている。単年度ではなく、後半5年間を見通した復興事業の見直しが必要だ」と、腹を固める。
良き相談役となったのは、旧山古志村長として新潟県中越地震での全村避難を指揮した副大臣の長島と、兵庫県職員として阪神・淡路大震災に対応した補佐官の谷だった。大災害を経験した2人と話し合ううち、民主党政権が導入した復興事業の「地元負担ゼロ」の是非が浮上してきた。
地元負担のないことが、自治体が「本当に必要な復興事業とは何か」という議論と真剣に向き合う上での障害、いわば逃げ道や甘えになっていないか―という懸念だ。竹下は「16年度以降、道路など基幹的事業は全額国費を継続するが、その他の事業はわずかでも地元負担を入れたい」という意向を岩手、宮城、福島の知事へひそかに打診した。粗々に試算した県単位の新たな負担は数億円だった。
反発があるかと身構えたが、本県の内堀雅雄ら3県知事は「負担には耐えられます。地元負担を入れた方が、県や市町村の職員が締まります」と、竹下の考えに賛同した。
竹下は、地元負担の考えを盛り込んで復興事業の総点検を進めた。15年6月には、20年度までの復興事業を約32兆円とする新たな枠組みを決定した。
新たに約3兆円の財源が必要になったが、竹下によれば「自己負担の導入で、どこまで膨らむか分からなかった10年間の復興事業が、32兆円という枠に収まった。財務省からは反対どころか感謝された」という。負担増に、市町村からの異論も特段なかった。
20年度までの5年間は「復興・創生期間」と名付けられた。竹下は「誰かが悪役にならないと物事は進まない。幸い、そんなに悪役にならずに済んだけどね」と静かに語った。(敬称略)
【竹下亘元復興相インタビュー】
歴代3人目の復興相を務めた竹下亘氏(74)に「復興・創生期間」(2016~20年度)の復興事業の在り方をどのように決定したのかなどを聞いた。
再度の復興住宅遅れ注意、内堀氏に「ちゃんとやれ」
―復興相就任時はどのような状況だったか。
「大臣に就任してすぐの記者会見で、最初に質問されたのは『(島根県出身で東北の東日本大震災の)被災地出身でないあなたに被災地が分かるのか。復興相が務まるのか』という内容だった」
「その時『私は田舎者だ。田舎者として復興に取り組む』と答えたのを今でも覚えている。阪神・淡路大震災のような都会の災害は(まちを)直せば人が帰ってくる。しかし、田舎のように経済活動が活発でない地域はなかなか人が戻らず、復興は都会の何倍も難しい。その視点を持ち続けながら大臣をやろうと思った」
―就任当時、福島県の現状をどう見ていたか。
「東京電力福島第1原発事故の被災地は、地震や津波の被災地と完全に色が違っていた。他の地域と別の考えで対応しなきゃならんと思っていた。私だけではなく、復興庁、中間貯蔵施設を担当していた環境省の職員も同じだった」
―その頃はまだ中間貯蔵施設の搬入受け入れが決着していなかった。
「環境相は望月義夫氏(19年に死去)だった。同時期にそれぞれの派閥の事務総長だったので親しい仲だった。被災地にもよく一緒に行ったが、望月氏は中間貯蔵の議論が進まず叱られてばかり。私の方には『もっと事業をやってください』という陳情ばかりだった。望月氏は『不公平だよ』と怒っていたな」
―在任時に、当時の佐藤雄平知事から副知事だった内堀雅雄氏に県政トップが代わった。2人の印象は。
「佐藤氏とは(自分が故竹下登元首相の秘書で、佐藤氏が)渡部恒三衆院議員(20年に死去)の秘書だった頃から20年来の付き合いだ。ただ、復興相として会ったのは就任直後の1度だけ。その後すぐに佐藤氏は引退を表明された」
「内堀氏は、派手さはあまりないけれど、非常に手堅い印象だった。『復興はパフォーマンスをやる人よりも、こういう人の方がいいな』との思いはあったよ。その意味での信頼感はあったね。だから『おまえどうするんだ』『政府は何をしてくれるんですか』というような感じで話していた」
―復興事業を巡り内堀氏を厳しく注意したことがあったと聞いたが。
「それは事実。(県が整備する)どこかの復興公営住宅の建設が遅れた。最初は『まあしょうがない』と思ったが、半年ぐらいしたら、また『遅れます』と言ってきた。その時は『もう許さないよ。1回はいいが、何回も遅れるのは駄目だ。ちゃんとやれ』と注意した」
「事業計画が遅れることは、被災者にとって自分の生活再建が遅れるのと同じだ。納得できるはずがない。内堀氏以外にも、当時はあちこちで『2回遅れては駄目だ』と言っていた」
被災3県知事も理解「自己負担は入れた方がいい」
―在任中に、集中復興期間(11~15年度)後の復興政策の枠組みを決めた。16年度以降の復興をどうするかという議論は、いつごろから始まっていたのか。
「(14年9月に)僕が行った時にはもう始まっていたよ。復興期間は10年と法律に書いてある。後半5年間をどうするかという話だ。就任後の事務方からのレクチャーでは『総理に決めていただくためのものをつくるのが大臣の仕事です』と言われた」
―15年初めごろから、「単年度ではなく5年分のまとまった見通しを示したい」と発言したが。
「(震災当初の)5年前に考えていたことと違う状況がいくつも出ていた。最初は7割の人が帰りたいと言っていたが、半分ぐらいになっていた。だから(16年度以降の復興事業の)見直しをする時は、単年度主義ではなく、後半5年間を見通したものにしようと思った。事務方も『それでいきましょう』となった」
―それまで全額国費の復興事業に、一部とはいえ地元負担を導入した背景は何だったのか。
「副大臣の長島忠美氏(17年に死去)と大臣補佐官の谷公一氏はそれぞれ、新潟県中越地震と阪神・淡路大震災を経験していた。彼らは『自分たちは全部地元負担付きでやった』という。私も、道路や宅地造成などは全額国費でいいと思っていたが、公園整備など『100%復興かな』という事業があった。それらには自己負担を入れようと、早い段階で話をしていた」
「復興庁で週1回開いていた政務会議で『俺たちが悪役になろう』と言った。長島氏と谷氏、政務官の小泉進次郎氏がいた。そこで一部に自己負担を入れたいという考えを伝えた。事務方に話すと『できるのですか』と言う。『分からないが、やってみる』と返した」
―導入の理由をどのように考えていたのか。
「ほんのわずかでも自己負担があれば、本当に必要な事業とは何かを真剣に考えるようになる。これは被災者と全然関係がない。市町村や県の職員が考えることであって、復興への意識を変えていこうと思った」
「もう一つ、復興予算は国民に広く増税して確保したものだ。阪神や中越の時は1割の自己負担で復興してきた。東日本大震災の被災地に1割を負担してほしいとは言わない。1%でも2%でも自己負担を入れるのが国家事業の在り方じゃないかと考えた。実際に負担率は極めて低くした」
―自治体の反応はどのようなものだったか。
「内々に内堀雅雄氏ら被災3県の知事に打診した。各県全体の負担は数億円から10億円増える。『耐えられるか』と聞いたら、3人とも『耐えられます。自己負担は入れた方がいい。その方が県や市町村の職員が締まります』と答えた」
「復興事業全体の8割に相当する本体事業は、全額国費を継続するという安全弁があったから。グレーのような事業に、わずかに自己負担を入れることを知事たちは分かってくれた。政治家だった」
―自己負担を入れて事業を精査し、16年度以降の5年間を含めた復興事業を32兆円とする枠組みを決めた。約3兆円の追加財源が必要になったが、政府内の反応は。
「当時総理の安倍晋三氏や麻生太郎財務相は『かかるものは仕方ない』と。財務省にすれば、自己負担がなかったら無限に膨張していたはずの予算が(10年間で)32兆円に納まったわけだ。役人が『これで歯止めがかかります。ありがとうございました』と言いに来たよ」
―自己負担は自治体に理解されていたのか。
「文句はほとんど来なかった。良い人だけでは物事は進まないから悪役になろうとしたが、思ったほど悪役にならずに済んだね」
避難者が帰りづらくなるのはおかしい
―16年度以降の5年間は「復興・創生期間」と命名されたが、どのようにして決まったのか。
「初めは副大臣らと相談していたが、良い意見が出ない。そこで、長く復興に関わるだろう復興庁の若手にアイデアを募ったところ、出てきたのが『復興・創生期間』だ。これはいいと思い、安倍氏に『総理の発案(ということ)にしてください』と言ったら、『そうします』と決まった」
―在任時、「12市町村の将来像」構想づくりにも力を入れていたが。
「当時は(避難指示の出た)12市町村の足並みがそろっていなかった。政府も県も真っ正面から復興に取り組むから(地元も)一本になってほしいと思い、日本学術会議の会長を務めた大西隆氏を座長に、何度も会議を開いた。あの会議には全部出た。提言までは時間がかかった」
―子ども・被災者支援法の基本方針見直しに合わせて、自主避難者への支援をどうするのかという議論も出ていたと思うが。
「あった。自主避難者への家賃補助などは内閣府の所管だった。いつまでも続けられず、いずれ打ち切らなければならないという意見は、内閣府と県の両方から出ていた。ただ、内堀氏には『いきなりバサッ(と打ち切り)じゃ受け入れられるわけないから、暫定で3年見るとか、5年見るとか。それぐらいのことはやれよ』と言った。内堀氏は『それはやりますよ』と言った」
「自主避難した人が『福島のコメは駄目です』などと避難先で言っていたことには困っていた。自らを正当化するため多少オーバーに言わなければいけなかったのだろうが、報道機関はそれに飛び付いた。そうすると、帰還しようとする人はまるで変人のように見えてしまう。自分としては、古里に帰ろうとする人が帰りづらくなるようなことになってはおかしいと思っていた」
―間もなく震災と原発事故から丸10年になるが、復興相経験者として本県の現状をどう見ているか。
「家を建てたり、道路ができたりするのは時間とお金をかければできる。大事なのは、復興した地域が新たな古里となるように魂を打ち込んでいくことではないだろうか。行ったことがあるとか、テレビで見たことがあるとか、それは古里じゃない。古里の魂を復活させていくという仕事は、これからなのではないか」