【証言あの時】元復興相・吉野正芳氏 「緊急事態」託された重責

 
吉野正芳元復興相

 2017(平成29)年4月26日、皇居。吉野正芳は、天皇陛下から復興相に就任することを認証してもらうため、首相の安倍晋三とともに一室で待機していた。吉野は安倍に尋ねた。「なぜ私が復興相なのですか」。「緊急事態だからだ」と安倍は即答した。当時、政府の復興行政に対する信頼は地に落ちていた。

 復興行政の司令塔となる復興相には、平野達男や根本匠(衆院福島2区)、竹下亘ら、政策通で実力派の国会議員が就任してきた。しかし、竹下の後任の高木毅から様相が一変する。

 高木は就任早々にスキャンダルなどが発覚。その後任の今村雅弘は、被災地の現状を理解していないような言動を続けた末、最後には「(被害が)東北で良かった」という暴言を吐き事実上更迭された。その今村の後任が、吉野だった。

 当時、与党内には「これからは復興政策の見直しや縮小が続く。被災地の地元議員が復興相を務めるのは厳しい」という空気感があった。吉野はこのような背景を踏まえ、安倍に質問した。復興を本気でやる気があるのか―という不信が向けられる緊急事態。東京電力福島第1原発事故の被災地選出の吉野に、信頼回復の重責が託された。

 「被災地を巡ることで何とか信頼を取り戻さなければ」と意気込む吉野は就任翌日、知事の内堀雅雄に会うため福島市のJR福島駅で降りた。すると、居合わせたタクシー運転手らが「吉野、頑張れ」と手を振ってきた。とっさに返事した吉野だが、内心では「選挙区の議員でもない自分に注目してくれているのか」と驚き、期待に応える決意を固めた。続いて訪れた仙台市のJR仙台駅でも、吉野に激励の声が掛けられた。

 「被災地出身の大臣として被災者の最後の一人まで責任を持って対応する」。国会では訛(なま)りそのままに被災地の現状や思いを答弁し、被災地では明るい性格で首長らと語り合う吉野の下、復興庁は「平常」を取り戻し、被災者の生活支援のソフト事業などを展開していった。ただ、吉野の心中には心配事があった。

 復興・創生期間(16~20年度)が終了したら、10年を期限とする復興庁はどうなるのか。吉野は「ポスト復興庁」の議論の必要性を訴えた。吉野の在任中に決着しなかったが、復興庁は21年度以降もそのままの形で存続することになった。

 「防災省を創設し、その一部として存続する案もあったが、そうなれば次々発生する新しい災害にスポットライトが当たり、震災復興はかすんでしまったに違いない。今のまま、存続したということで良かったのだと思う」。吉野は震災10年のその先を見据え、笑みを浮かべた。(敬称略)

 【吉野正芳元復興相インタビュー】

 被災者を傷つける発言をした前任者が事実上更迭された中で復興相に就任した吉野正芳氏(72)に、復興行政の信頼回復への取り組みなどについて聞いた。

 まずは被災地に、やっぱり現場に通うことが信頼回復につながる

 ―前任の今村雅弘氏は暴言を吐き、事実上更迭された。後任に選ばれた当時の心境は。
 「自分がなるとは思っていませんでした。(当時)これからの復興相は、『復興事業を(状況に合わせて少しずつ)終了させることが主な仕事になるので、地元出身では大臣はとても耐えられない。だから、地元はもうさせない』という話を聞いていたからだ」

 ―就任の打診をどのように受けたのか。
 「今村氏が失言した日(2017年4月25日)、当時の首相の安倍晋三氏から『(当時の)今井(尚哉)秘書官から、後から詳しいことがあるから、準備しておいてほしい』と言われた。それで次の日の26日に、大臣就任の認証を受けに、私と安倍氏で皇居に行った」
 「皇居で2時間ぐらい待つ時間があったので、安倍氏に『なぜ私なんですか』と聞いた。そうしたら(安倍氏は)『緊急事態だ』と答えた。復興庁の信頼が本当に失われてしまったので、(被災地の)私を選んだということですね。安倍氏も危機感があったと思います」

 ―どのようにして信頼を回復しようと思ったか。
 「まずは被災地に一生懸命通おうと思った。福島県のことは(地元なので)よく分かっていたけど、岩手県と宮城県はよく分からなかったから。やっぱり現場に通うことが信頼回復につながると考えていた」

 ―今村氏との復興大臣の引き継ぎ式は行ったのか。
 「やりました。でもその時に、今村氏に(暴言について)抗議した。引き継ぎ式で抗議なんてめったにないと思うが、私自身が被災者ですし、東北出身の議員として言わなければいけないと思った」

 ―当時の復興庁の職員から、吉野氏が就任後初めて福島市のJR福島駅に降りた時、声援が上がったと聞いた。
 「そうなの。もうびっくりだよ。内堀雅雄知事に会いに行くため、福島駅で降りたら(乗車待ちで待機していた)タクシーの運転手が『吉野、頑張れー』って手を振ってくれた。あれは今でも覚えている」

 ―吉野氏はいわき市と双葉郡の衆院福島5区が地盤であり、福島市は選挙区外の衆院福島1区だ。
 「そう。被災地出身の大臣として期待感があったのだと思う。信頼回復が私の仕事だったので、そういう意味でも就任して良かったと思った。JR仙台駅前で降りた時も応援の声をもらって驚いた」
 「その後、被災地だけではなく、全国に26カ所あった被災者を支援する『よろず相談所』(生活再建支援拠点)を全て巡りました。そこは、双葉郡の被災者も、自主避難の方も分け隔てしないで支援する場所。北海道から沖縄まで、全部を巡ったのは私だけだろう」

 「東京とのずれ」解消へ本県出張は常磐線を使えと言った

 ―復興相に就任した当時、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年が経過していた。当時の重要課題は何だったのか。
 「復興のハード面は順調に進んでいた。しかし、ソフト面や『心の復興』『人間の復興』については、まだかなりの時間を要すると思っていた。そのころ、宮城と岩手である程度復興が進んでいたので、復興庁は心の復興事業に使うことができる被災者支援総合交付金(の予算)を減らそうとしていた。『そこは1円も減らすな』と言った」
 「全国の相談所を巡った時、京都の拠点が、被災者の話を聞く『傾聴』という取り組みをしていることを聞いた。最初は『何しに来た』『どうして俺の住所を知った』と言っていた人のところに何十回も通って心の扉を開いてもらったという話を聞いて、このような事業は重要だと考えていた」

 ―復興庁の考えと、地元の肌感覚を知る大臣との間でずれがあったのか。
 「それはあったよ。俺は(被災地に)住んでんだもの。住んでいる人と、東京から見てる人の間で目線にずれがあるのは当たり前だ」

 ―ずれの解消に向けて取り組んだことは。
 「復興庁から福島の被災地に出張するとき、徹底してJR常磐線を使うように言った。それまでは新幹線を使っていた。被災者は地元を離れるときも、戻るときも常磐線の風景を見る。被災者と同じ体験をしないと、真の意味での復興はできないと考えた。だいぶ意識は変わったと思う」
 「(復興庁出先の)福島復興局は福島市にあるが、本庁幹部が浜通りに出張するとき、職員が郡山市のJR郡山駅まで車で迎えに行き、そこから被災地に行くようなことをしていた。だから『復興局を双葉郡に置け』と言ったが、事務方は『それだけは勘弁してください』と言ってきた。(設置から時間が経過し)根を張っていたこともあったのだろう」

 ―復興庁は各省からの派遣職員らで構成され、人事異動もあって震災当時を知る人はほとんどいなくなっていたと思うが。
 「そうだ。だから復興庁の本庁職員の全員とカレーライスを食べて(震災当時や被災地の)話をした。職員を数人の班に分けて大臣室で食べた。まさか大臣とカレーを食べるとは思わなかっただろうな。全国26カ所の拠点を巡った話なんかもしたので、職員はやる気を出してくれたと思う」

 ―ずれといえば当時、福島県が求めていた福島第2原発を含めた「県内原発の全基廃炉」の要請に、政府は曖昧な回答を繰り返していた。閣僚の一人として政府に福島県の意向を伝えていたのか。
 「それは当然。閣議の前に経済産業相と会った時などに話していた」

 防災省案あったが、復興かすんでしまう。思い複雑だった

 ―就任後間もなく、福島復興再生特別措置法が改正された。改正により帰還困難区域に住民が帰還するための特定復興再生拠点区域(復興拠点)をつくることができるようになったが、どのように受け止めていたのか。
 「以前、自民党東日本大震災復興加速化本部が政府に出した提言の中に『たとえ長い年月がかかっても、必ず解除する』という一文があった。この文章を書き込んだのは(加速化本部の一員だった)私でした。ようやく帰還困難区域の復興が始まったと思った」
 「ただ、会見などで法改正について『原発との戦争を闘う上で一番の武器だ』と言ったことがハレーションを起こした。福島県内では違和感のない表現だったと思うが、他の人にはそうではなかった。『戦争』や『武器』などの言葉は場所を選んで話すようになった」

 ―在任中は、復興・創生期間(16~20年度)後の復興行政の在り方をどうするかの議論が始まったころではなかったか。
 「うん。入り口ね」

 ―かつて、復興庁の今後について、他省庁の震災復興に関連する機能を集約させた「大復興庁」とすることを持論としていた。
 「うん。いわゆる(全国で発生するさまざまな災害に対応する)防災の役割と復興庁を合わせた『大復興庁』を考えていた。与党の加速化本部としても米連邦緊急事態管理局(FEMA)をイメージした提言を出したこともあった」
 「この(『防災省』に近い復興庁の後継組織の)考え方には、業務が目の前に発生する災害に集中し、東日本大震災の復興にスポットライトが当たらなくなるのではないかという問題があった。ただ、震災10年を経過した後では、そのような形でもないと復興庁は存続できないのではないかという、複雑な思いがあったことも事実だ」

 ―「ポスト復興庁」をどうするのかという問題提起をしたが、在任中に決着しなかった。結果的に現状の継続となったが、どのように見ているのか。
 「私はね、復興庁を存続させたい一心だったから。当時の安倍首相の判断に感謝している。あれで良かったのだと思う」

 ―先ほどから何度か出てくるが復興行政を決める上で与党の加速化本部の存在は大きかったのか。
 「大きかった。与党が地元首長や被災地の地元議員の意見などを集約して政府に提言し、復興政策が動くというパターンができていた。復興政策については党主導の流れだった」
 「(首長との意見交換では)当時の自民党加速化本部長だった大島理森氏(現衆院議長)と楢葉町長の松本幸英氏が激論を交わしたこともあった」

 ―どのような議論か。
 「避難指示解除のことだった。大島氏は(町が「15年春以降」としていた)避難指示解除について、春ごろに解除宣言してほしかったんだ。でも頑として町の立場を守ったのが幸英町長だった」

 ―間もなく震災から丸10年。被災地の現状や課題をどのように見ているか。
 「被災地の人は笑顔を見せるけど、心の内側はどうだろうか。私は家族などを亡くしていないが、今でも津波の映像を直視できないんだ。時間が過ぎたから、心のケアまで十分にできたと考えるのは間違いだ。東日本大震災・原子力災害伝承館などを使って震災を知らない子どもたちに、記憶を風化させずに伝えていくことも務めだね」