【証言あの時】元復興庁事務次官・岡本全勝氏(上) 官僚主義破る

 
岡本全勝元復興庁事務次官

 「これは日本国政府の能力が試されている」。2011(平成23)年3月19日、自治大学校長だった岡本全勝は、課せられた重責に決意を固めた。官邸で官房副長官だった仙谷由人(18年に死去)から言い渡された職務は、40万人以上に及ぶ東日本大震災の被災者支援の総指揮だった。

 岡本は、自治省(現総務省)出身の官僚で、地方行政を熟知していた。頭の切れと、歯に衣着せぬ胆力を自民党重鎮の麻生太郎に買われ、麻生内閣の首相秘書官となった。官邸での日々は、岡本に与野党を問わない幅広い人脈と各省庁への影響力を与えた。民主党政権は、岡本のこの手腕にかけた。

 その日から「被災者生活支援特別対策本部」の事務方トップとして動きだした。被災地からの多様で膨大な支援要請は、平時の行政対応でカバーできる範囲を超えていた。物資の集配所が機能しなかった時、職員から「民間の宅配業者を活用しては」との案が出た。前代未聞の試みだったが、岡本は「すぐ頼もうや」と指示した。即断即決を約束事とし、前例に縛られる「官僚主義」を破っていった。

 やがて「支援本部に言えば何とかなる」という流れができ、官僚機構が動き始めた。ただし、それは、岡本が担当する津波・地震の対応に限られていた。東京電力福島第1原発事故の被災者支援は、経済産業省が管轄する「原子力災害対策本部」の役割だったが、避難誘導や支援などは十分に機能していなかった。

 岡本の上役は内閣府副大臣で、後に初代復興相となる平野達男だった。2人は「支援が必要な人に区別はない」と話し合い、原子力被災者の支援に着手する。しかし、岡本は原子力災害が持つ特殊性に直面する。

 福島を訪れた岡本は、ある会議で「最後まで支援します」と発言した。すると出席者から「違うでしょう。『支援する』ではなく『国は責任を果たします』と言いなさい」と指摘された。加害者の政府と被害者の県。この両者をつなぐ仕組み作りが、次の課題となった。

 岡本は、旧知の間柄だった副知事の内堀雅雄に連絡した。原発事故対応への不信感からか、対話に積極的ではなかった当時の知事、佐藤雄平の説得を内堀に任せ、岡本は「対話の場」をどのように設定するかを考えた。会合を福島で開き、たとえ首相が出席しようとも政府は下座側に座る。県側には上座から言いたいことを発言してもらうよう調整した。

 岡本は、8月の協議会初会合を「不用意な発言をしたら、即座に中止になりそうな会議だった。空気はもう、バリバリに凍っていた」と振り返る。その後、岡本は昨年11月末に復興庁顧問を退任するまで、一貫して本県復興に関わった。

 「被災地の首長さん、俺のことさ『岡本さん』と呼ばずに(通称の)『ぜんしょうさん』と呼ぶやろ。これが一番の信頼関係やないか」。笑顔の中に、顔が見える政府機構の代表者であり続けた自負がにじんだ。(敬称略)

 おかもと・まさかつ 奈良県出身。東大法学部卒。1978(昭和53)年に自治省(現総務省)採用。2008年に麻生太郎内閣の首相秘書官を務めた。11年の震災当時は自治大学校長。被災者生活支援特別対策本部の事務局次長に就任して災害対応に当たる。12年2月に復興庁が発足してからは、同庁統括官、事務次官、福島復興再生総局事務局長、内閣官房参与などを歴任。昨年11月末に復興庁顧問を退任した。名前を「ぜんしょう」と読まれることが多い。66歳。

 【岡本全勝元復興庁事務次官インタビュー】

 およそ10年間にわたって復興行政に携わった元復興庁事務次官の岡本全勝氏(66)に、東日本大震災発生当初の政府内の状況や、本県と関わるようになった経緯などについて聞いた。

今までの行政機構では対応できない

 ―震災が起きた2011(平成23)年3月11日は何をしていたか。
 「当時は(東京都立川市にある)自治大学校の校長を務めており、校舎で学生の報告会に出ていた。(東京電力福島第1原発事故に伴う)計画停電の影響を受けながら、1週間程度は学校の復旧に取り組んでいた」

 ―震災対応に当たるようになったきっかけは。
 「3月18日、総務省の事務次官からだったと思うが『明日10時に官邸へ行け』と連絡があった。『何するんですか』と聞いても『そこで聞け。詳しくは言えない』と言う。これは原発関係かなと思った」

 「ただ、09年9月に(麻生内閣の)首相秘書官を辞めていた。自民党政権を支えた官僚だから、民主党政権では都合が悪かろうというので、霞が関(の中枢)から離れていた。それで『(呼び戻されるのが)俺かよ』という気持ちも内心あったんだけど」

 ―3月19日に官邸に行き何を言われたのか。
 「当時の仙谷由人官房副長官(18年に死去)から『膨大な数の避難者がいるから、そこの生活支援の指揮を執れ』と言われたのを鮮明に覚えている。そこで『私は(具体的に)何をするのですか』と聞くと『それを考えるのが君の仕事だ』と言われた。その日から地震・津波被災者を支援する『被災者生活支援特別対策本部』の事務局次長として動きだした」

 ―著書「復興が日本を変える」では「日本国政府の能力が試されているのだ」と決意したとある。
 「それには二つあった。一つは、旧民主党政権は『政治家が全部決めるから役人は出てこなくていい』というのがあった。内心で『なにくそ。俺たち(官僚)がいなくちゃ動かへんじゃないか』と思っていた」

 「それと、今までの行政機構では対応できないという思いだった。『私は農業』『私は教育』なんていう縦割りや、これが国の仕事、これが県の仕事、これが市町村の仕事(のように役割分担)としたら、とてもカバーできない。役所間の横のつなぎのために、俺が呼ばれたのだと思った」

 「自分は復興や防災のプロではない。しかし(首相秘書官の経験から)どこの誰に言えば官邸が動くかを知っていた。与野党幹部も知っていた。各省庁の局長を(一人一人)知らないけど、電話をすれば向こうが『(秘書官だった)全勝さんですか』と(自分のことを)知っていた。被災3県の副知事と面識があったことも大きかった」

 ―副知事だった内堀雅雄氏との関係は。
 「彼が自治省に入った時からの付き合い。直接の上司、部下とはならなかったが、将来の自治省を背負う人間やと思ったから、なんちゅうの、ことのほか『かわいく』指導したな。彼からしたら(自分は)厳しい先輩やったろうね」

仙谷氏と松本氏が「全部任せた」と言ってくれた

 ―被災者生活支援特別対策本部の体制はどうだったのか。
 「関係する政治家は仙谷氏と、防災担当相の松本龍氏(18年に死去)。事務局長は、内閣府副大臣の平野達男氏(後の初代復興相)だった。仙谷氏と松本氏は『お前に全部任せた』と言ってくれたので『じゃあ報告だけしまっせ』となった。平野氏には、細かいことも相談していた」

 ―どのように組織をつくり上げていったのか。
 「被災地から挙がってくる個別案件を組織的に解決するための仕組みをつくった。第1グループは総務担当で、ここに気心の知れた職員を2人配置し、全体を動かせた。質問や苦情を受け付けて(専門分野に合わせて班分けした)第2グループなどに割り振る『電話交換』のような役割を果たした。第2グループは、課題が大きくなるたびにその分野の班を新設し、必要な人材を張り付けた」

 「意思決定のシステムも構築した。班長が集まる会議は、毎日朝と夕の定時に開いた。そこで出た重要事項などのエッセンスは、午前11時に政治家が出席する本部会議で決定するようにした」

 「本部のメンバーには俺が『やっておけ』と指示しておき、翌朝の会議で松本氏らに『こうしますからいいですね』と説明し、お墨付きを得ていた。だいたいが事後承諾だったけどね。ここまで決まれば、官僚は(課題解決に)走りだすことができた。法令にないことを『やろう』と言って政治家に説明し、納得してもらう手法が、後に『霞が関の治外法権』と呼ばれるようになった理由だ」

 ―具体的なエピソードはあるか。
 「被災3県に物資の配給拠点をつくったのだが、さまざまな物資がドバッと来て自衛隊ではさばけなくなってしまった。増員しても無理だろうという話になった時、国土交通省から来た職員が『クロネコ(ヤマト運輸)とペリカン(日通)は毎日すごい数のバラバラなものを処理してます』と言うわけ。『それだ、直ちに頼もうや』となった。企業やNPOの力を借りて何でもありでやっていた」

 「ただ、自治体への指示には配慮した。津波被災地では職員も亡くなり、行政機能が低下していた。政治家からさまざまな指示が出るが『今、それを言っても無理です。ちょっと待っておくんなはれ。やり方考えますから』と言うのも、自治省で地方の現場を知っていた私の役目だった」

 ―平野氏は、ある時期から原発事故の被災者への支援ができていないことに気付き、対応に着手したと証言している。
 「地震と津波被災者の支援は、1週間ほどで組織的な対応ができるようになった。そのころから、平野氏がこちらの本部に来なくなった。当時、福島の被災地をまわっていた経済産業副大臣の松下忠洋氏(12年に死去)に付いて行っていたんだ。原発事故の被災者支援は、経産省が主導する原子力災害対策本部の役割だったが、避難指示を出した後の誘導や支援は十分機能していなかった」

 ―平野氏や岡本氏はどのように原発事故の被災者に対応していったのか。
 「原子力災害対策本部にわれわれのような実務部隊『原子力被災者生活支援チーム』ができたのは3月末だ。それまでに、福島県からの原子力災害の被災者を受け入れていた市町村から、私たちの本部の方に『どうしたらよいか』という問い合わせが来ていた」

 「その時点でもう『それはこっち(の津波・地震の支援本部)で引き受ける』と回答した。津波被災者も原発被災者もとにかく支援することにした。平野氏も同意してくれた。ただ、避難指示が出ている地域には何もできず、歯がゆい思いだった。実は、平野氏と私が向こう(原子力災害対策本部)に行ったらどうかという話もしていたが、採用されなかった」

初会合、福島側をわれわれが出迎えるスタイルに

 ―本格的に福島県に関わるようになったのは。
 「平野氏が政府代表として当時の知事の佐藤雄平氏に会いに行くようになり、そのお供として通いだした。当時忘れられない出来事があった。具体的な日付や会議の名称は思い出せないが、私が『最後まで支援して参ります』と言った。東邦銀行の瀬谷俊雄氏だったと思うが『違うでしょう。支援するではなく、国は責任を果たしますと言いなさい』と指摘された。その通りだと思った。こちらは加害者。加害者責任を果たさないといけない」

 「当時、佐藤氏は政府から来る人と面会することに積極的ではなかった。それはそうだ。(政府は)あのような事故を起こしたのだから。しかし、何としても福島と政府との議論をかみ合わせるための協議会、表のテーブルが必要と考えた」

 ―実現に向けてどのように動いたのか。
 「5月の連休明けぐらいから動いていた。内堀氏の努力で県側のメンバーを浜通り、中通り、産業団体などから選んでもらった。こちらは一切口を出さない」

 「私は会合の方法を考えた。通常の政府の会議は東京でやるけども、政府側が頭を下げに行く場だから絶対に福島の現場でやりましょうと。内堀氏に言ったのは、上座を福島、下座を政府にしてくれと。福島側が来るのをわれわれが出迎えるスタイルにした」

 「内堀氏が佐藤氏のOKを取ってくれて、協議会の初会合は8月のお盆明けになった。1回目は、空気がバリバリに凍っていたよ。不用意な発言をしたら、即座に止まって中止になってしまいそうな会議だ。その辺は、みんな分かっていた。県側から出てきた要望には、臨機応変で答えた」

 「(意見交換する)舞台装置をつくらないと、いくら法律があっても機能しないと考えた。総理や大臣が地元に行って、地元の話を聞く会議は、珍しいと思う」

 ―福島県の首長らとの信頼関係をどう築いたか。
 「とにかく現地に足を運んで話を聞いた。『今何困ってはりまっか』と。そうすると『実は』となる。首長さんは俺のことさ、『岡本さん』と呼ばずに(通称の)『ぜんしょうさん』と呼ぶやろ。これが一番の信頼関係やないか」