【証言あの時】元県議会議長・佐藤憲保氏(上) 県災対本部に常駐

 
佐藤憲保氏

 「おい、どうなってんだ」。2011(平成23)年3月11日午後4時30分すぎ、県議会議長だった佐藤憲保は、福島市にある自治会館の一室のドアを勢いよく開けた。そこは設置して間もない県の災害対策本部だった。佐藤はそのまま対策本部に加わり、関係者に雷を落としながら震災対応の重要な役割を担うことになった。

 「原発危ない」情報に内堀氏に「早く行け」

 県の対策本部に議長が加わることは異例だ。だが、災害に直面し鬼気迫る佐藤の勢いに、誰も異論を唱えなかったという。被災状況が報告される中、11日深夜に「原発が危ない」との情報が入る。「どうする」とざわめく。佐藤は反射的に、副知事だった内堀雅雄に「余裕はねえ。今すぐ行け」と口にした。内堀は、大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)に飛んだ。

 詳しい情報が手に入らないまま、12日に第1原発1号機が水素爆発する。その日の深夜、対策本部の予備会議で「スピーディというのが国から来ました」と報告があった。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム「SPEEDI(スピーディ)」を使った放射性物質の拡散予測だった。

 佐藤が「それどうするんだ」と聞くと、職員はあいまいな返事をした。「発表する、しないの権限はどこにある」「国です」「国は何て言ってるんだ」「何も言ってません」。このようなやりとりで、県民を無用な被ばくから守るための情報は「うやむやになってしまった」と今も悔やむ。

 その後、佐藤は議長車で仮眠し、対策本部に出る日々を過ごした。3月20日ごろ、佐藤の下に旧知の総務省事務次官、岡本保から連絡が来る。「今は政治に頼っても動かない。各省庁の役に立つ人材のリストを出す。理屈と金は後から付く。できることは何でもやってください」。佐藤は「それは俺がもらうものではない」と言い、リストは内堀の手に渡った。知事の佐藤雄平からは、3月末に「これからも対策本部に居てくれないか」と請われた。

 しかし、佐藤と県幹部の間に温度差が生じていた。4月下旬、郡山市が独自に校庭を除染する方針を発表する。その翌日、県幹部らは「政府の方針もないのに、どうするのかね」と冷笑していたという。佐藤は激怒した。「おまえら何、勘違いしてんだ。基準がないなら政府につくらせるのが仕事だろうが」。場は凍り付いた。しばらくして、内堀が交渉に文部科学省へ飛んだ。

 佐藤によれば、民主党政権の震災対応が不安定な時期、岡本と内堀、佐藤雄平を軸にした「福島発」の復興政策が数多く政府方針に採用されたという。

 対策本部常駐は、5月臨時県議会の直前まで続いた。佐藤は「理屈に合わないことには気合掛けて歩いた。知事の代わりの『怒り役』だったんだ」と振り返った。(敬称略)

 【佐藤憲保元県議会議長インタビュー】

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の初期、県災害対策本部ではどのような議論が行われていたのか。県議会議長として参加していた佐藤憲保氏(66)に聞いた。

 SPEEDIデータ「うやむやになってしまった」

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時はどこにいたのか。
 「議会業務が午前中でほぼ終了したので、郡山市の病院に入院していた母の見舞いに行った。病院を出て車に乗ろうとした瞬間に大きな揺れが来た。そこからすぐに県庁に戻った」

 「県庁に着いたのは午後4時30分ごろ。県職員が寒さに震えながら外に立っていた。『災害対策本部はどこにつくった』と聞くと、自治会館だというので、すぐに上がっていって『どうなってんだ』と部屋に入り、椅子に座ったのが、震災対応の始まりだった」

 ―県議会議長が県の災害対策本部に入るのは異例だと思うが、どうだったのか。
 「普通なら『議長はご遠慮ください』と言うのだろうが、俺の勢いに押されて誰も『外してくれ』とは言わなかった。だから、そのままいることになった」

 「当時は被害状況を把握し、整理するだけで1週間か10日かかっていたのが実情だ。その期間は(自治会館の)下に議長車を止め、仮眠していた。2時間に1回ほど予備会議をやり、半日に1回とか正式の災対(災害対策)会議を開いていた。ほとんど寝ることができなかった」

 ―原発事故についてはどうだったのか。
 「11日深夜の予備会議で原発が危ないという情報が入ってきた。幹部らは『いかがしましょうか』とやっている。『いかがでしょうなんて時間かけてる余裕はねえ。(副知事だった内堀雅雄氏に)すぐ行け』と言った。内堀氏は、そこから大熊町のオフサイトセンター(県原子力災害対策センター)に飛んで12日朝に着いた。だが情報はほとんど入らなかった」

 「12日に1号機が爆発して映像が流れた。災害対策本部近くにいた東電の福島事務所長に『どうなってる』と聞いたら『大丈夫です』としか言わない。『1号機以外も危ないだろう』と聞くと、たいした状況でないようなことを言った。『そんなことあるか』と怒った」

 ―災害対策本部で原発事故をどう議論していたのか。
 「12日深夜の予備会議で、生活環境部次長だった荒竹宏之氏(現消防庁防災課長)が『SPEEDI(スピーディ、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)(の情報)というのが国から来ました』と言った。知らなかったから『何だ』と聞くと、『原発事故の際に風とかの流れによって放射能の拡散するのを想定したやつです』と言う」

 「それから『それどうすんだ。発表する、しないの権限はどこで持っているんだ』『国です』『国はなんて言ってんだ』『何とも言っていません』などとやりとりしたが、その時点でうやむやになってしまった」

 「なぜこれを覚えているかというと、(双葉郡選出の)吉田栄光県議から『(浪江町)津島に住民と避難した。寒いけど灯油もない。議長何とかしてくれ』と当時、連絡を受けていたからだ。後から見れば津島の線量が高いと予測されていた。住民は知らされずに野ざらしだったんだ」

 校庭の除染「基準なかったら、国からもらってこい」

 ―復興政策についてはどのように議論していたか。
 「オフサイトセンターが県庁に撤退し、内堀氏も戻ってきた。20日ごろと思うが、知り合いで震災対応を相談していた、当時の総務省事務次官の岡本保氏(現自治体国際化協会理事長)から連絡があった。『議長、今の民主党政権は頼っても何も動かない。理屈と金は後で付くから、できることは何でもやってくれ。省庁の役に立つ人間のリストを出すから使ってくれ』と言ってきた。『俺がもらうリストでねえ』と言って、それは内堀氏のところにいった」

 「それから、内堀氏と岡本氏、俺が連携して『福島発』で物事を動かした。最終的には、知事だった佐藤雄平氏が決断した。原発事故で自治体そのものが避難するなど、すでに災害救助法などの法律の想定から外れていた。だから地元からやりたいことを発信し、政府はその意見に合わせた」

 ―佐藤雄平氏はどのような反応だったか。
 「3月31日に昼食を一緒に取った際、『明日から4月で年度が替わるから俺は(災害対策本部から)抜けるよ』と言った。そうしたら知事が『いや、今までどおり居てくれ』と言う。正式な依頼があったので、改めて副議長だった瓜生信一郎氏と交代で入ることにした」

 ―復興政策について何か印象深いことはあったか。
 「4月下旬ごろ、郡山市長だった原正夫氏が、郡山で独自に校庭の除染を始めると発表した。翌日の災害対策本部の予備会議に出たら、県幹部らは『市長あんなこと言ってるけど、国が方針も対策も出してないのにどうするんだ』などと、せせら笑っていた」

 「俺は大声で『おめえら何、勘違いしてんだ』と一喝した。『郡山が始まると言えば、よその市町村もうちもやると必ずなる。基準があるとかないとか関係ないんだぞ。なかったらその基準を国からもらってこい。それがおまえらの仕事だろ』と怒った。注意された幹部らは縮こまっていた」

 ―それでどうしたのか。
 「その後、内堀氏に『東京に行って、原発事故の放射線対策をどうするんだか国と掛け合ってこい。時間がないということでやれ』と言った。内堀氏は、知事の了解を得て文部科学省に行った。すると午後5時ごろに『腰の重かった文科省がようやく動き始まります。対策できるかもしれません』と喜んで電話をよこした」

 「だが、午後8時ごろまた電話が来た。『議長、さっきの話、誰かに話しましたか』と言うので『誰にも話していない』と返した。すると『文科省がまたバックしました。何も動きません』と言ってきた。内閣官房参与だった小佐古敏荘氏の学校の線量に関する会見があり、基準を決められなくなってしまったんだ」

 「その時は(内堀氏に)『国が判断しねえなら、福島が判断するからと言ってこい』と伝えた。当時の政府の原発事故への対応は、全ての面で遅かったというのが11年3月や4月の状況だった」

 「銭の心配してんなら、命の心配しろ」

 ―災害対策本部に、いつごろまで常駐していたのか
 「結局は5月の臨時県議会(5月17日招集)の前までだった。4月ごろは原発の問題がまだ混乱していたのだが、佐藤雄平知事がテレビに出るたびに『国が、国が』と言っていた。そのころは『国が国がってあるか。国が駄目だったら、俺が(後押しして)やるから(雄平氏が知事として)やれ』と言っていたんだ。でもあまり変わらなかった」

 「そこで、5月の連休明けに内堀氏を呼んで『国が原発事故への対応ができないからって、指くわえてるわけにいかねえんだぞ。今助かる命を失うんだぞ、県民が生きるか死ぬかなんだからな。おめえら分かってんのか。できる対策何でもやれよ。知事に伝えておけ』と改めて言った」

 「すると、内堀氏が『議長、それは私が知事に報告する範囲をもう超えています。知事と直接やってください』と言うから、知事ら三役に知事室に集まってもらった」

 ―どのようなやりとりになったのか。
 「内堀氏、佐藤雄平氏、副知事の松本友作氏(当時)の3人の前で、俺が『いつまで国が国がってぶら下がってんだよ』と怒った。すると、松本氏が『議長、そんなこと言ったって、国の判断基準もない、財源もないのにどうするんですか』と言い返してきた。これにはまた怒って『県民の命懸かってんのに銭勘定が先かよ。銭がねえなら東邦銀行に行って借りてこい。ねえんだったら俺が借りるぞ。銭の心配してんなら人の命の心配しろ』と言った」

 「この出来事の後、『福島県はこうやるからな、国はそれに対応してくれよ』という動きが強くなってきた。それが、市町村などを交えた福島の復興対策協議会につながっていくんだ」

 ―11年8月27日に初めて開催された「原子力災害からの福島復興再生協議会」のことだと思う。この会議については、後に復興庁事務次官となった岡本全勝氏が深く設立に関わったと証言している。
 「これまでの話は、岡本全勝氏が福島県の復興に本格的に関わる前の段階のことだ。岡本全勝氏が関わるまでは、(総務省事務次官だった)岡本保氏らが動いてくれていた。6月県議会が終わったころ、福島市に岡本保氏、内堀氏と3人で集まり、今後のことを相談したこともあった」

 ―災害対策本部で自らが果たした役割をどのように考えているか。
 「震災から2年ぐらい過ぎたころだろうか。県の幹部と当時の状況について話したことがある。俺が怒ったのはこれと、これとこれぐらいだよなと言ってみた。すると『この人も、この人も、私もあの人も、ほとんど議長に怒られてますよ』と言われた」

 「(副議長として災害対策本部に入った)瓜生氏は、いつも雄平知事を立てていた。俺はこういう(迫力があり誰にでも直言する)性格だから、とても理屈に合わねえのは気合掛けて歩いてたから。雄平氏の代わりに、俺が(災害対策本部での)『怒り役』だったんだよな」

 さとう・のりやす 日大法学部卒。郡山市職員を経て1995(平成7)年の県議選で初当選。7期。自民党県連幹事長などを務めた。東日本大震災の発生時は県議会議長として復興政策の実現に尽力。原子力政策を巡っては2009年、凍結されていた東京電力福島第1原発3号機のプルサーマル発電の議論再開を進めた。しかし、原発事故後の11年10月、原発立地道県初の全基廃炉の誓願採択を主導し、本県の「脱原発」路線を決定づけた。郡山市出身。66歳。