【証言あの時】前新地町長・加藤憲郎氏 防災無線、語り続けた

 
加藤憲郎前新地町長

 2011(平成23)年3月19日、新地町長の加藤憲郎は防災無線のマイクの前にいた。やがて加藤の穏やかな声が、東日本大震災の津波の爪痕が残る町内に響いていった。語り掛けたのは、町内の放射線量や届けられた支援物資の内容など。町長自らの放送は7月10日まで、毎朝休むことなく続けられた。

 11日の津波により町の面積の5分の1が浸水した新地町では、自衛隊の力を借りながら、消防団員らによる行方不明者の捜索などが行われていた。東京電力福島第1原発事故が深刻化すると、原発から約50キロ離れた新地町でも町民から不安を訴える声が上がった。

 原発が水素爆発した後、白い防護服を着た数人が役場周辺に現れた。役場近くには町民が避難しており、動揺が広がった。加藤は、外に出て「何してるの」と声を掛けた。彼らは県職員で、防護服を着て町内の放射線量を測ることを指示されていた。加藤は「その格好では不安をあおるだけだから。線量計を貸してくれれば町の方で測るから帰ってほしい」と言い渡した。

 測った数値は、避難指示が出されるような水準ではなかった。この事実をどのようにして伝えれば良いのか。加藤が選んだのが、防災無線を通じ町民に直接呼び掛けることだった。「町長が毎朝(放射線量を)言ってくれるから、避難しなくても大丈夫だと分かったよ」という声が加藤の元に届き始め、町内は落ち着きを取り戻していった。

 加藤は「放送をやって良かったなと思った」と当時を振り返るが、万が一に備え町民の安全を守るための秘策も用意していた。秋田県と交渉を進め3月20日ごろには「いざというときは全町民を秋田で引き受けます。車がないときには迎えのバスも出します。ただし、その時には(当時の)佐藤雄平知事からの依頼も必要ですからね」と、避難受け入れの確約を得ていたのだ。

 その後、新地町は本格的な復興への道を歩みだす。津波で壊滅した(JR常磐線の)新地駅については、いち早く用地交渉を進めたことで、仙台―相馬間の新ルート選定や早期復旧に大きな影響を与えた。被災した町民の高台への集団移転では、抽選ではなく一軒一軒、各世帯の家族全員の意見を聞いた上で移転先を決めていく「オーダーメード方式」を採用した。新地町の取り組みは「復興のトップランナー」として注目されることになった。

 加藤は「まちづくりに完成はない。できる限りのことをして次の世代に引き継げれば良いと思っていました」と、静かな笑みを浮かべた。18年9月、加藤が4期16年の任期を終え退任した時、町の人口は震災前に戻っていた。(敬称略)

 【加藤憲郎前新地町長インタビュー】

 新地町長だった加藤憲郎氏(74)に、東日本大震災発生当初の状況や、津波被害からの復興の歩みなどについて聞いた。

 秋田避難日本海側で放射線影響少なく安全だと思った

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時、どこにいたのか。
 「相馬市で開かれた土地改良区の会議から帰る途中だった。役場に連絡し『戻るまで15~20分かかる。津波の心配があるから、防災無線で避難を呼び掛けてくれ』と指示した」
 「役場に着いた時には大津波警報が出ていた。地震から1時間ぐらい過ぎたころ、『津波が見える』と声が聞こえたので、役場3階の窓から海を見ると、どす黒い津波がぐっ、ぐっとせり上がって壁になり、そのまま海岸沿いの集落にぶつかった。津波は役場まで押し寄せた。この世のものとは思えない怖い光景だった」

 ―それまでの津波の浸水想定はどうだったのか。
 「専門家は(JRの)常磐線を越える津波は来ないだろうと言っていた。あの時、(常磐線を越え)国道6号まで迫る津波を見て、住民は避難できたのだろうかと心配した」
 「JR新地駅の列車にいた乗客は、乗り合わせていた警察官が役場まで避難誘導してくれたので無事だった。しかし、駅近くの踏切では、降りたままの遮断機が上がるだろうと待っていた人たちが犠牲になってしまったと聞き、非常につらかった」

 ―町の面積の5分の1が浸水した。震災初日に住民の避難状況は把握できたのか。
 「なかなか把握できなかった。一夜明けた12日午後に自衛隊が来てくれた。総合体育館を自衛隊の拠点として開け、町民は地区ごとにそれぞれ一つの避難所に集まってもらった。このことで、正確な状況がつかめるようになった」
 「自衛隊は、行方不明者の捜索などで本当に頼りになった。(東京電力福島第1)原発が爆発した後、他の機関が一時撤退したことがあった。しかし、彼らは『部隊の責任者が線量計を着けています。自分たちは判断できます』と言って、残ってくれていた」

 ―自衛隊の存在が安心材料になったのか。
 「そうだ。でもそのうち南相馬市などで避難が始まった。消防団員も『本当に大丈夫なのか』と心配していた。彼らには『避難指示が来れば、町民の命を守るのが俺の仕事。必ず安全な所に案内するから心配すんな』と言った」
 「万が一に備えて町民全員が避難できるよう、3月20日ごろに秋田県に電話で依頼した。副知事から『秋田県が引き受けます。車がないときは迎えのバスを出します』と了解が得られた」
 「ただ、『そのときには佐藤(雄平)知事(当時)を通じて一緒に秋田県知事にお願いしてください』と言われた。『もちろんです』と答えて一安心した。このことは、当時の副町長と町議会議長にだけ話していた」

 ―なぜ秋田県を避難先に選んだのか。
 「南相馬市は新潟県に行った。山形県も混み合うだろうなと思った。日本海側でより放射線の影響が少ないということで、秋田県の方が安全かなと思った。幸い避難指示は出ず、助かった」

 防災無線7月まで毎朝放送やって良かったな

 ―町の記録には、3月14日に第1原発3号機が爆発した時、町民に屋内退避を指示したとあるが。
 「念のため屋内で状況を見ようと思い町民に呼び掛けた。そのころだったと思うが、防護服を着た県職員が2人ほど来て、役場周辺を歩き始めた。ものすごく目立つので、役場周辺に避難していた町民が不安がった。(外に出て)『何してるの』と聞くと、『放射線量を測って県に報告しています』という」
 「私は『住民が大勢いる中で、その姿は不安をあおるだけだから。線量計は町の方で借りて基準点全部測って報告するから帰ってほしい』と言い、帰ってもらった」

 ―測った放射線量の数値はどうしたのか。
 「不安がる町民に落ち着いてもらおうと考えて、19日から私が防災行政無線で報告を始めた。毎朝7時に『昨日の町の放射線量は何マイクロシーベルトでした』『支援物資をいただきました』とか、それを7月10日までやった。防災無線は各戸に入っていて、地区ごとに屋外スピーカーもあった」
 「1カ月ほどしたら『町長の話は聞きたいんだけど、ニュースも見たいから7時15分にして』という意見が寄せられた。それからは7時15分にした。夏ごろ、『町長が毎朝言ってくれるんで、避難しなくても大丈夫なんだ』という年配の町民の声を聞き、やって良かったなと思った」

 ―7月10日に放送をやめたのは、住民に安心感が広がったからか。
 「そうだ。自衛隊が6月に任務を完了して引き揚げ、避難所の人たちも6月中に仮設住宅に移ったから」
 「仮設住宅の用地取得や建設はスムーズに進んだ。最初は、高齢者らに優先して入居してもらおうと思った。しかし、地区ごとに避難所に入ってもらっていたこともあり『高齢者とか小さい子どもがいるとかの優先順位は関係なく、地区の人たちと(一緒に)仮設に移りたい』という意見が多く、その通りにした」

 高台移転先線引き 住民の意見、一軒一軒地図に

 ―まちづくりのプランでは、新地駅を内陸に移動させることになった。
 「政府やJR(東日本)などと駅の再建を議論した際、踏切が開くのを待って津波で亡くなった人がいたことを踏まえ、必ず立体交差にしてほしいと強く訴えた」
 「震災前の新地駅前は、自転車を預かる店とタクシー会社だけで、後は田んぼというのどかな風景だった。それもあり、内陸に300メートル移設するための用地はすぐに決まり、9月には固まっていた」
 「これに驚いたのが宮城県山元町。内陸側にルートを大幅に変更しようとし、交渉の長期化が懸念されていた。ところが、新地ではすぐに駅の位置が決まってしまった。仙台市に通勤通学する町民らから『早く決めて』と突き上げがあったそうだ。それで計画が見直され、12年3月には仙台方面から相馬までの新ルートが確定した。新地の決断は、常磐線の早期復旧を刺激する効果があったのです」

 ―津波被災地から住民が高台に移る「防災集団移転」だが、新地町は住民の希望を聞く「オーダーメード方式」を採用したと聞いた。
 「政府から補助が出るのは1世帯当たり100坪(約330平方メートル)までだった。しかし、地方は車社会で、1世帯に何台も車があるのが当たり前。農家ならば住宅の他に作業場なども必要で、100坪では全く足りない。だから、土地の造成は町がするから、100坪を超える部分は個人で買い取ってもらうようにした」

 ―土地の選定はどうしたのか。
 「住民が仮設住宅にいる時から、移転するならどのような暮らしをしたいかということを聞くワークショップを開いていた。そこには世帯の代表だけではなく、子どもも含めて家族みんなで参加してもらうことにした」
 「そして、町が道路や役場、学校などの利便性が良い安全な高台を数地点選んで用地交渉した。快く協力していただき、地権者に感謝したい。移転先の線引きは住民に任せた。ワークショップで『端っこでいいから200坪欲しい』『こちらの方で150坪欲しい』とかの意見を寄せてもらい、一軒一軒地図に落とし、その通りに町が造成した」

 ―家族全員で場所や面積も含めて決めたのならば、抽選などとは違って満足度も違ったのではないか。
 「それはそうだと思う。気の合った仲間たちで集まって移転したいという場合も、5世帯以上まとまった場合に認めた。土地はその人たちが見つけてきて、町が造成した。グループ単位で集団移転したのは二つあったと思う」
 「後は、なかなか自力再建が難しい町民から『家は建てられないけど、今まで一緒にいた地域の人と離れたくない』という声が上がった。それで、集団移転の造成地の中で(住民がそれぞれ選択した後に)空いている土地に、平屋建ての災害公営住宅を造った。町の職員も丁寧によくやってくれたと思う」

 ―県の町村会長(任期は15年6月~17年5月)を務めた。
 「(就任の)話があった時は『被災地なので、人の世話をするどころではないです』と一度は断った。しかし、町村会事務局から『県の代表として(町村会長が)政府に要求に行くには、被災地の首長だからこそ訴える力が強いんです。だからやってください』と説得された。当時の飯舘村長の菅野典雄さんも『加藤さんじゃなきゃ(被災地の)生の声は出せないよ』と推薦してくれたので、引き受けることにした」

 ―間もなく震災から丸10年になる。現在の町の復興をどう見ているか。
 「復興計画は、町民みんなの協力でほぼ予定通り、進んできたと思う。ただ、いつも思うのは、まちづくりはどこで完成なんていうことはない。常に課題は出てくるわけだし。目標を立てて一つ一つやって、次にバトンタッチできればいいなと思ってやってきた」