【証言あの時・番外編】故遠藤勝也富岡町長 垣根ない双葉訴えた

 
富岡町議会全員協議会で避難指示区域再編への考え方などを説明する遠藤氏。冷静に双葉地方の将来を見据えていた。左隣は副町長(当時)の田中氏=2012年10月29日、郡山市

 東京電力福島第1原発事故で避難指示が出された12市町村のうち、富岡、田村、浪江の3市町の当時の首長がすでに亡くなっている。彼らはどのような思いで、東日本大震災と原発事故に向き合っていたのか。関係者の証言を基に「証言あの時 番外編」として解き明かしていく。

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 「人口はどんどん減っていく。一つの町村だけでは行政運営できない。広域行政、あるいは大同合併して垣根のない双葉になることも必要だ」。2012(平成24)年4月19日、富岡町長だった遠藤勝也(14年7月死去)は東京都内で開かれた会合で、双葉地方8町村の合併に言及した。原発事故で住民避難が続く中、双葉郡の現職首長の発言は驚きをもって迎えられた。

 報道陣の取材に「それぐらいしないと自治体が消滅してしまう」と危機感を示した遠藤は、合併を議論していく考えを示した。しかし、一部の首長が必要性を認めたものの、「時期尚早」「議論できる状況にない」などの反応の中で合併論は下火になり、双葉郡の8町村はそれぞれに復興の道を歩むことになった。

 原発事故前の反省

 遠藤は、合併論にどのような思いを持っていたのか。当時、副町長として遠藤を支えた田中司郎は「単独の自治体では持たない。消滅する前に、合併やその前段である広域連携を進め、双葉郡の住民を守っていける形をつくることが必要だと、2人で繰り返し議論していた」と明かす。その背景には原発事故前の双葉郡への反省があった。

 福島第1、第2原発が立地する双葉郡では、電源三法に関連した潤沢な交付金を活用し、類似した施設が複数の自治体に整備された。田中は「無駄遣いと言われても仕方のないことだった」と振り返る。原発事故による避難で住民の減少が確実視される中、復興事業でも同じようなことをしたら、共倒れになるのではないか―。いまだ帰還の道筋すら見えない状況で、遠藤は冷静に双葉郡の将来を見据えていた。

 災害への重責一身

 原発事故で古里から追われ、川内村や郡山市へと避難を繰り返す中、町民は全国に散らばった。避難所運営や仮設住宅の建設、政府との復興政策の折衝など、遠藤は町長として未曽有の災害に対する重責を一身に背負った。避難指示区域の再編で生じる賠償格差をなくす枠組みなどに道筋をつけた後、13年8月に政治の一線から退いた。田中もまた、副町長を辞した。

 数年の時が流れ、田中が避難指示の解除された富岡町内で酒を飲もうとすると、店員から「別のお客さまもいます」と告げられた。見ると、双葉郡の町村の企画課長、係長らが集まり会議後の意見交換をしていた。田中は「震災前にはなかった光景だった」と回想する。

 一つの自治体では持たない―。遠藤の10年前の言葉を、早すぎた警告として受け止める日が来るのか。それとも、事故直後の切迫した雰囲気が生みだした杞憂(きゆう)とみるのか。現役世代の真価が問われる。(文中敬称略)

 【当時の状況を聞く】田中氏、安藤氏

 故遠藤勝也富岡町長は、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故にどのように対応していたのか。副町長を務めた田中司郎氏(70)と、町消防団長だった安藤治氏(72)に、当時の状況などを聞いた。

 元富岡副町長・田中司郎氏に聞く 訴えていた一律賠償、国にひっくり返され町長は激怒した

 ―2011(平成23)年3月11日はどこにいたか。
 「震災当時は企画課長で、富岡町役場にいた。災害対策本部を設立しようとしたが、正庁が確定申告の会場になっていたので、会議室を使うことにした。ベランダに出て海の方を見たら、真っ白い帯状のものが迫ってきた。津波の第1波だった。夜になると非常用発電機が不安定になった。そこで隣接する『学びの森』に本部を移すことにした」

 ―原発事故の情報は。
 「東電の職員は来てくれたが、はっきりしたことは分からなかった。遠藤氏は『何とか情報をつかんで連絡してくれ』と頼んでいた。その後、12日朝にテレビなどを通じて避難指示を知った。遠藤氏が川内村の遠藤雄幸村長に電話をして『もう町にとどまることができない』と避難受け入れを要請した」
 「バスやマイカーを利用した避難が始まった。自分は役場の鍵を閉めて最後に出た。道路は大渋滞していた。何かあったときのために三十何年も西へ向かう道路の改良を要望していたのに狭く脆弱(ぜいじゃく)なままだった。避難の足かせになった。川内に着いたのは夜だった」

 ―川内村に着いてからは。
 「県から衛星電話が届き、遠藤氏は旧知の官僚らに連絡した。最初は『川内から動くことはない。安心して』と言われていた。次第に(福島第1原発)3号機の様子がおかしくなり、遠藤氏が『大丈夫なのか』と聞くと『大丈夫ですけど...』とはっきりしなくなった。3号機が爆発すると『申し訳ないけど、あと10キロとか20キロ避難しないと...』とか言ってきた」

 ―郡山市への避難はどのように決めたのか。
 「県に相談すると、南会津町か群馬県片品村に行けと言われた。遠藤氏が電話を取って『それでは駄目だ』というと、『後は自分たちで考えて』と言われた。そこで、遠藤氏はビッグパレットふくしまの館長に連絡し、川内村とともに引き受けてもらうようになった」
 「ビッグパレットには多くの避難者が集まり、寝るにも段ボール1枚で隔てられているという大変な状況だった。当時の副町長が体調を崩した。私は定年で一度退職し、復興計画を作る特命参事を務めていた。遠藤氏から『覚悟を決めてやってくれ』と頼まれ、12年2月から副町長を務めた」

 ―それからすぐの12年4月に、遠藤氏は東京都内での会合で双葉郡8町村の合併について言及するが。
 「遠藤氏は、町村単独ではやっていけなくなるというイメージをしっかり持っていた。自治体が消滅してしまう前に、合併などを一つの方法にして双葉郡の住民を守っていくような構成にしていかなければ、とよく話していた」
 「双葉郡(の各町村)は電源立地交付金を使って、同じような施設を造り、無駄遣いと言われても仕方ないことをやってきた。今回(の震災復興で)はそんなことはないわけで。遠藤氏は、先を見越して合併を議論しようとしていた」

 ―遠藤氏は「5年間帰還できない」宣言もした。
 「これは賠償に絡んでくる。遠藤氏は、町民の間で(帰還困難区域などの避難指示の区分によって)格差を生まないよう、一律賠償を訴えていた。国からは事前に『大丈夫です』と話をされていたが、説明会の当日に『そうはなりません』とひっくり返され、遠藤氏が激怒したことがある」
 「その後、理屈として、除染してインフラを整備しても最低5年ぐらいはかかるから、(長期避難になり)一律賠償の対象になるのではないかと考えた。内々に政府のしかるべき人と面会したら『一律でいけるでしょう』となった。そこで遠藤氏は宣言を出した」

 ―原発事故後、遠藤氏と原発について話し合ったことなどはなかったか。
 「特段しなかったような気がする。ただ、(立地町の首長として)原発を管理していくという意味合いにおいて、東電を非常に信頼していた。だから、遠藤氏にとって、原発事故は残念な出来事だったと思う」

 元富岡町消防団長・安藤治氏に聞く 聞こえた1号機の水素爆発、それでも町民の避難を待った

 ―震災発生時どこにいたのか。
 「仕事で双葉町にいた。大きい地震だったので、富岡町役場に電話すると『消防団幹部を招集してください』と言われた。一度職場に戻ったところで、富岡川をさかのぼってくる津波を目撃した。その後、町の対策本部に合流した」

 ―原発事故の情報は対策本部に入っていたのか。
 「11日午後4時すぎに町職員が『(原子力災害対策特措法の)15条通報があったようだ』と言ってきた。後から調べると、原発が緊急事態にあることを意味していたのだが、聞き流してしまった。午後10時ごろにはテレビで第1原発が深刻な状況にあると知った」

 ―富岡町は第2原発の立地町だ。第2の情報は。
 「第1原発の情報は、第2原発から間接的に得ていたようだ。対策本部に原発に詳しい人がいて『(避難せずに)大丈夫ですよ』という話をしていた。12日未明には、副知事だった内堀雅雄氏が来て、遠藤氏と面会した。だが、遠藤氏は何を話したのかを対策本部で明かすことはなかった」

 ―12日朝に川内村への避難を開始する。どのような情報で判断したのか。
 「12日午前6時前、着替えるために自宅に戻った。すると、大熊町が防災無線で『避難です』『集まってください』と町民に呼び掛けているのを聞いた。急いで(富岡町)役場に戻り、そのことを伝えた。『県の車が避難しろと広報していた』という話も入り、避難することになった」
 「町民の川内村への避難が始まってからも、私や遠藤氏らは対策本部に残っていた。朝の炊き出しがそのままになっていたので、その様子を見に行った時に『ドーン』という音が聞こえた。1号機の水素爆発だった。逃げるわけにもいかず、町民の避難が終わったと判断した夜まで待ち、川内に避難した」

 ―川内村での様子は。
 「川内で人数を確認してみると、当時の町民1万6000人のうち6000人しかいない。どこに行ってしまったのかと周辺(自治体)を回ると、小野町や田村市などに3000人ほど避難していた」

 ―原発の状況は悪化の一途をたどる。16日に郡山市に避難した経緯は。
 「15日夜、無線を傍受して危機感を募らせていた消防団員が『逃げなきゃならないべ』と主張し、『大丈夫だ』と説得する対策本部側と言い合う場面もあった。私は16日、小野町の避難者に支援物資を配りに出た。帰り道、郡山方面に続々と向かう自衛隊車両とすれ違った。そこで電話が鳴り『郡山に避難することになった』と連絡を受けた」

 ―再び避難を強いられた町民の心情は。
 「ある人は『われわれは(町に)ぶん投げられた』と嘆いていた。町は『避難先を見つけられる人は親戚でも知人でも頼って』という趣旨の説明をしたようだが、『勝手に逃げろ』と解釈した人もいた。各課長が口頭で伝えたようで、説明が上手な人も、そうでない人もいたということだ」

 ―避難後の消防団の活動はどうなったのか。
 「消防庁から(現地で)活動できないと通知が来ていた。私は町の依頼で、町内約70カ所の空間放射線量の測定などをした。13年3月に富岡町を巡回する『とみおか守り隊』ができ、初代隊長を務めた。後に富岡は3区分に再編されるが、線量を測定した経験から、線量が高いのに帰還困難区域から外れた地域には『なぜ』という思いもあった」

 ―今回の原子力災害で得られた教訓は。
 「(1999年に茨城県東海村で起きた)JCO臨界事故を受け、町は原発事故前に、第2原発周辺の一部地域だけを対象に防災訓練を行っていた。対象を町全域に拡大するよう求める団員もいたが、町は『不安を与える』と応じなかった。原子力の講義も受けたが、講師の話しぶりからは『事故は起きない』という思いが透けていた。だが、事故は実際に起きた。災害に対応できる知識を身に付けておく必要がある」