台風のさなか、裏の医院に飼われていた猿が逃げた。嵐の音に野生が呼び戻されたのか、屋根の上で叫び声を上げる。台風が去った後、猿は小さな亡きがらとなっていた
▼エッセーの名手、向田邦子が子どもの頃の台風の思い出をつづっている。猿の不思議な所業とは裏腹に、用心深くあれこれ備える向田家の人間模様がほほ笑ましい。兄弟げんか、夫婦げんかも休戦となり「父も母も、みな生き生きしていた」(「霊長類ヒト科動物図鑑」文春文庫)
▼暦は先人の知恵を刻む。立春から数えて210日目は台風襲来を警戒する日となった。毎年9月1日前後が「二百十日」。稲の開花期と重なるため、風を鎮め、豊作を祈る風祭が各地に伝わる
▼101年前のきょう、関東大震災が起きた。昔からの風の厄日に「防災の日」の警鐘が重なる。最近は巨大地震注意や直撃する台風に気を抜けない日が続く。憂いが募る列島の暦に備えは欠かせない
▼向田家の夜。火を使わない缶詰がおかずとなり、子どもたちは歓声を上げる。父はいつも2本のお銚(ちょう)子(し)を1本に控え、母に懐中電灯の確認をする。騒々しいが「一家をあげて固まっていた」。天地が暴れるとき、人は肩を寄せ合う力をもらえる。