両親思い...侑子の生きた証しを 須賀川一中柔道部事故で後遺症

 

 須賀川一中(須賀川市)で2003(平成15)年、柔道部の練習中に起きた事故で、後遺症のため市内の自宅で療養していた車谷(くるまたに)侑子さん=事故時1年生、享年(27)=が亡くなり12日で1年となる。「侑子は多くの課題を残して亡くなった。生きた証しを残すため、家族が経験を伝えないと」。15年間、在宅介護を続けた母晴美さん(56)と父政恭さん(63)。娘と歩んだ道を振り返り、障害者支援の充実と学校事故防止への思いを強くする。

 侑子さんの後遺症は「遷延(せんえん)性意識障害」と呼ばれる。自立歩行や明確な意思疎通などはできないが、表情から快・不快は読み取れたという。晴美さんはヘルパーと「チーム」で介護しようとヘルパー2級の資格を取得。侑子さんの隣で寝起きし、たんの吸引や胃ろう、投薬など24時間体制で介護した。政恭さんは仕事の傍ら家事に入った。家族で過ごせる幸せを感じながらも消耗する両親を支えたのは「いつかぱっと目が覚めるのでは」。その一心だった。

 両親は介護者の休息や社会参加のため、一時的に医療機関が要介護者を受け入れる「レスパイト入院」の必要性を指摘する。市や病院に協力を求めたが、病院側の採算面、人手不足などの課題で難航。侑子さんが亡くなったのは、その矢先だった。負担軽減だけでなく「もし娘が長生きしたら。両親亡き後の道筋も考えたかった」と政恭さん。長く家族で暮らし、将来の体制を築くために、介護から離れる時間も必要だった。

 在宅介護に至るまでの道のりも険しかった。市や療育施設に入所を相談したが受け皿がない。「お母さんの愛情100%で頑張って」。応援の言葉は残酷に響いた。「愛情だけでは生活できない」

 それでも、理解を示した福祉、医療の関係者、養護学校教諭らが侑子さんの生活に彩りを加えた。リハビリとして取り入れた音楽療法。いつもそばに音楽があった。養護学校高等部2年時には修学旅行で大阪へ。福島空港や航空会社、学校などの協力で実現した。「夢のようだった」と政恭さん。日焼けして帰ってきた娘に、充実した様子を感じた。

 柔らかい光が差す侑子さんの部屋。色とりどりの千羽鶴が飾られており、侑子さんがいないこと以外は、ほぼそのままだ。晴美さんは今もこの部屋で目覚め、鶴を見上げる。職場から帰宅し、侑子さんに会うのを楽しみにしていた政恭さんは、今は仏壇に侑子さんの面影を見る。「侑子のぬくもりは感じられなくなったが、いなくなった気がしない」

 晴美さんは大学で、教諭を目指す学生らに事故について語ったり、同じ障害のある家族会に参加するなど、交流や学びの輪を広げている。15年間を登山にたとえる晴美さん。困難に直面したからこそ「同じように山を登る人の道標、力になりたい」と語った。