【2020・戦後75年】使命...「遺骨を日本に」 現地訪れ収集活動

 
「命を落としていった仲間のことを伝えなくてはならない義務がある」と遺骨収集を続ける伊藤さん

 「天皇陛下、万歳」。掛け声の後、父が手榴(しゅりゅう)弾の信管を抜くと、青白い煙が瞬く間に洞窟内に立ち込めた。当時9歳だった会津坂下町の伊藤久夫さん(85)。日本から南へ約2500キロ離れ、フィリピン海と太平洋に挟まれたマリアナ諸島に浮かぶテニアン島で米軍の攻撃から逃げ惑った日々は、鮮明に脳裏に刻まれている。

 「75年たっても、遺骨はまだ半分も日本に帰ってきていない。亡くなった人たちに日本の地に帰ってきてもらいたいという一心で遺骨収集を続けている」。伊藤さんは戦後50年の節目となった1995(平成7)年から、毎年テニアン島を訪れ、遺骨収集を行っている。

 生後2カ月だった1935(昭和10)年2月、会津坂下町から日本が委任統治していたテニアン島に家族で渡った。父久吉さんはサトウキビ栽培に従事。伊藤さんら移民にとって希望の島だったが、平穏な暮らしは長くは続かなかった。

 開戦から1年後、日本は劣勢に転じ、太平洋の島々で敗北を重ねる。戦局は悪化するばかりで、テニアン島は補給路が絶たれ、孤立していった。

 44年7月24日、約4万人の米軍が島北部に上陸。伊藤さん家族は荷物をまとめ、島南部を目指した。8月2日には、日本軍が全滅を覚悟する最後の突撃を行うことを知った。

 伊藤さんは2日朝、両親から家族写真と三途(さんず)の川を渡るための船賃「六文銭」を渡された。島南部も艦砲射撃を受け、無残な遺体が散乱する中、久吉さんは決めた。「もうこの島に逃げ場はない。一緒に死のう」

 あちこちの洞窟から、手榴弾の音と叫び声が聞こえた。一家が逃げ込んだ洞窟の入り口から「デテコイ。デテコイ。カマワン。カマワン」と片言の日本語が聞こえた。米兵だった。追い詰められた伊藤さん家族は「天皇陛下、万歳」と3回言葉にし、自決を試みたが、伊藤さん家族の手榴弾は不発だった。

 米軍に保護され、捕虜生活を経て戦後、会津坂下町に帰郷。95年にテニアン島での遺骨収集活動があることを新聞で知った。

 伊藤さんは体が動く限り、遺骨収集を続けるつもりだ。「当時誰も生きて日本に帰ることができるなんて思っていなかった。俺がこうして生きている以上、一人でも多くの犠牲者の魂を日本に迎え入れなくてはならない。自分にはそうする義務がある」