【2020・戦後75年】病死の父...米兵と「埋葬」 絶望の中で投降

 
「迫撃砲の爆発音におびえながら森の中をひたすら歩いた」と語る高橋さん

 圧倒的な米軍の火力。迫撃砲の爆発音におびえながら森の中をひたすら歩いた。フィリピン南部のミンダナオ島。伊達市梁川町の高橋英一さん(80)は島で終戦を迎え、一緒に逃げ惑った父を米兵の協力で埋葬した。

 高橋さんの父権吉さんと母まついさんは、昭和初期に梁川から島に渡り麻を栽培しており、高橋さんは島で生まれた。当時は化学繊維が広まっておらず、ロープなどの原料となる麻の需要は高かった。

 太平洋戦争の開戦前まで、米国の植民地だったミンダナオ島。麻を栽培するため多くの日本人が移り住み「学校や病院、貿易会社、豆腐屋などがあり、約2万人以上の日本人が暮らす恵まれた環境」だった。

 戦争が始まると、日本軍が島を空襲、上陸して占領したが戦局が厳しくなるにつれ「地獄の生活が待っていた」。1944年にフィリピン奪回作戦を開始した米軍は45年4月、ついに島に再上陸。高橋さん家族は一気に追い詰められた。

 敗退する日本軍が出した命令は「ジャングル地帯の山奥へ逃げろ」。必死に米軍から逃げる家族。ジャングルの奥から奥へと入った。日本軍属だった父らは熱帯特有のスコールを防ぐための小屋を作り、身を潜めたが、米軍による迫撃砲の攻撃がやむことはなかった。

 米軍の攻撃に加え、侵攻してきた日本軍を敵視するフィリピン人ゲリラによる襲撃、病気などで次々に日本人が命を落としていった。8月15日、高橋さんが空を見上げると、米軍の飛行機。まかれる大量の白い紙。「日本まけた。早くでてきなさい」。米軍キャンプまで出てくるよう促す紙だった。

 「本当に日本が負けたのか。(米軍の元に)行ったら殺されるのではないか」。だが父は歩けないほど衰弱しており、絶望の中で投降するしかなかった。母が父を背負い、米軍キャンプにたどり着いたが、父はそれから数日後の8月20日に亡くなった。病死だった。米兵に手伝ってもらい亡くなった父を埋葬。米兵は近くの枝を十字架にして置いてくれたという。

 戦後、高橋さんは慰霊の旅を始めた。父を埋葬した近くには慰霊碑が立ち、そこが父の墓と思っている。

 「戦争で多くのものを失った。それでも父のおかげで今がある。戦後75年という月日は平和の尊さでもある。今後もどんなことがあっても守っていかなければならない」