【2020・戦後75年】戦況が悪化...極限状態 突然の終戦に虚無感

 
爆撃機からの爆弾投下の様子を語る斎藤さん

 食べ物もない。兵器や弾薬もない。「当時は誰も口にできなかったが、今思えば内地(本土)の参謀たちが愚かだった」。満州(現中国東北部)の関東軍を支援する部隊に所属し、戦線近くで待機していた会津若松市の斎藤邦雄さん(96)は無線で終戦を告げられた。

 「どうやって戦うんだという状況だった」。終戦の1年前、大陸の日本軍は敗色濃厚。中国南部の米軍飛行場の破壊作戦のほか、大陸を南北に貫き、東南アジアから資源を運ぶ陸上輸送路を開拓する「大陸打通作戦」などを実行したが、次々と敗退していた。

 斎藤さんが召集されたのはこの時期。1944(昭和19)年10月、陸軍に入隊せよと召集令状「赤紙」が来た。20歳だった。「やっと来たとうれしい気持ちもあったが、死ぬかもしれないという悲しい気持ちもあった」

 当時、県内の青年は陸軍に召集されると、会津若松市の鶴ケ城近くに置かれた「若松兵営」で訓練を受けた。斎藤さんは同年代の約40人と一緒に入営。1カ月にわたる新兵教育を受けた後、中国南部に進軍していた部隊への派遣が決まった。大陸に渡ると訓練の連続。「穴を掘っては隠れ、敵の戦車に爆弾を投げ込む練習ばかりだった」。その中、上空には爆撃機が20機編隊で出現。兵舎には何度も爆弾が投下され、いつ命が絶えてもおかしくない日々だった。

 その頃、広島に原爆が投下。広島出身の仲間が古里の家族を心配する中、ソ連軍が満州に侵攻していることも知った。「年を取った軍人が逃げ、若い人にきついことを押し付けていた」。戦況と同じように、部隊内部も末期の状態だった。

 終戦の知らせは無線で突然届いた。「あぁ負けたのかと。日本軍が負けるとは誰も思わなかった。悲しむ仲間もいたし、ただぼうぜんとしていた」。極限状態の中であっけない伝達。斎藤さんは虚無感に襲われたことを今でも覚えている。

 古里の会津若松市に戻った斎藤さんは農業に取り組んだ。「多くの仲間を失う中、良かったのか、悪かったのか、偶然が重なり生き延びてしまった。力でねじ伏せる考え方は間違っている。戦争なんてやるもんでない」