【常磐炭礦大閉山50年(上)】石炭の町、繁栄と衰退

 
炭鉱の坑口に設置されていた銘板を説明する野木さん。現在はいわき市石炭・化石館ほるるに保存されている

 常磐炭田で石炭事業を手掛けたいわき市の常磐炭礦が主力の磐城礦業所を閉じたいわゆる「大閉山」から29日で50年の節目を迎える。採炭事業から観光産業、そして次世代エネルギーの集積地へと時代の移り変わりに歩調を合わせてきた市民らの取り組みや思いを、関係者の証言から掘り起こす。

昭和30年代、石油普及で一変

 「お風呂をたくのはまきではなく配給された石炭だった。通っていた内郷一中の周りは炭鉱労働者の住宅が密集していた」。いわき市の常磐炭田史研究会長の野木和夫さん(77)は、炭鉱が最盛期だった昭和30年代当時を思い出す。

 「同級生の半数ぐらいは関係者の子どもだっただろう。隣の内郷二中はもともと炭鉱がつくった学校で、もっと多かったと思う」。年に1度の炭鉱が休みになる「山神祭」は特にすごいにぎわいだったという。

 野木さんは大学卒業後の1966(昭和41)年に、父が勤めていた常磐炭礦に入社。事務職採用だったが、実習で約2カ月にわたり坑内作業も経験した。常磐炭礦の関連会社を定年退職後、現役時代の先輩らが設立した常磐炭田史研究会に入り、いわきで石炭産業の歴史を語り継いでいる。

 終戦後の昭和20年代は朝鮮戦争による特需があったが、石炭は徐々に安価な熱エネルギーである石油に押された。採炭現場では機械化による合理化が進み、昭和30年代には中小、零細炭鉱が姿を消していった。野木さんによると、大手の常磐炭礦でも昭和30年代から人員整理が進められたという。

 そして71年の「大閉山」で一挙に約5000人の失業者が生まれた。常磐炭礦は多くの子会社、系列会社を設けて退職者の受け皿としたが、別の地域に移り住んだ人も多かったという。野木さんは「閉山は企業の都合によるものだが、その当時の状況は、震災や原発事故で故郷を追われた人々の思いと近いのではないか。改めて大閉山の歴史を知ることが、多くの人たちの生きるヒントになれば」と話す。

 炭鉱は雇用を生み出し、仕事を求めて人々が集まったことで地域に多様性をもたらしたと考える野木さんは「いわきは採炭で栄え、閉山の厳しさを体験した。だからこそ次世代エネルギーを頼って消費する生活ではなく、これからは『できるだけエネルギーを使わない』という新たな生活様式を、発信できるようになれば」と語り、いわきが脱炭素時代のモデル地域になってほしいと希望する。

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 常磐炭田 本県から茨城県にまたがった南北95キロ、東西5~25キロに広がる炭田。江戸時代末期に石炭が発見され、明治時代以降に近代産業の発達とともに需要が高まった。産出量のピークは1957(昭和32)年の年間約430万トン。76年に坑内採炭が、85年に露頭採炭がそれぞれ終了して全ての炭鉱が姿を消した。