【新潟・福島豪雨10年】迫る濁流、九死に一生

 
「自然災害を人ごととせず悲劇につながらないようみんなで考え続け、過去の経験にとらわれないことが大切ではないか」と語る五十嵐さん

 奥会津に大きな被害をもたらした2011(平成23)年7月の新潟・福島豪雨は、発生から間もなく10年を迎える。降り続く雨で恵みの川は濁流と化し、地域を襲った。時間が経過して建物やインフラは復旧した。一方、JR只見線は金山町と只見町の間で不通のままで、住民は来年の再開通を待ち望む。豪雨は地域や住民の意識をどのように変えたのか、節目の年に教訓や課題などを探った。

 「濁流が大津波のように押し寄せてきた時には、死を覚悟した」。只見町八木沢地区で当時区長を務めていた五十嵐一(はしめ)(73)は、10年前の被災の記憶をよみがえらせた。八木沢地区は只見川と叶津(かのうづ)川が合流する場所にある。過去に増水などで一部の世帯で床下浸水などを経験したことがあったが、あの雨は違った。

 2011(平成23)年7月29日、只見町では朝から強い雨が降り続いた。地区では、被害が出ることを恐れた民生委員らが高齢者世帯を訪れて避難を呼び掛けた。一部の高齢者は「家まで水は来ないよ」と言って、自宅に残ることを選んだという。五十嵐もまた「大事にはならないだろう」と考えていた一人だった。

 その考えは、もろくも打ち砕かれた。昼ごろ、増水した川は集落から数百メートル離れた辺りで堤防を乗り越え、濁流となって襲ってきた。集落の中の水位はみるみる上がり、五十嵐は思わず外に出た。その時、ごう音が響いた。河川の氾濫に加え、集落の山際で土砂崩れも発生したのだ。川の水と沢からの鉄砲水により、国道や橋は通行不能に。集落は、完全に孤立した。

 いざというときの避難場所だった集会所は、すでに浸水していた。五十嵐は両親と自宅の2階に逃れたが、周囲は全て水だ。「自分たちは本当に助かるのだろうか」。夜が深まるにつれて不安が募った。住み慣れた家から出ることができたのは翌日朝。自衛隊のヘリコプターに救助された。

 現在、かつての場所から高台に移転した八木沢地区の集会所には、豪雨災害を忘れずに後世に伝えるための記念碑が立っている。地区の住民有志で話し合い、強い雨が降った場合には速やかに避難を呼び掛け、お互いに助け合うような緊急連絡網も作られた。

 五十嵐は、生命の危険を感じるような体験をし、自分の災害に対する認識が甘かったことを痛感した。近年は、各地で水害が相次いでいる。「地域を知り、みんなに当事者意識を持ってほしい。悲劇になる前にまず行動を」。九死に一生を得た五十嵐は、心から訴える。(文中敬称略)

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 新潟・福島豪雨 2011(平成23)年7月27日から30日にかけて新潟県と会津地方を襲った記録的豪雨。只見町では4日間の総降水量が711.5ミリに達した。行方不明者1人、住宅被害508棟、公共土木施設被害額約141億円など会津各地で甚大な被害をもたらした。JR只見線では第5、第6只見川橋梁(きょうりょう)などが流失し、現在も再開通に向けて復旧工事が進められている。