【特集・戦後76年】自慢の弟、不運な最期 顔は無傷、腹に爆弾破片

 
模擬原爆の破片を前に、亡き弟への思いを語り出す斎藤ミチさん=福島市渡利・瑞龍寺

 「最期の言葉を交わした時の弟の表情が今も目に浮かぶね」。福島市渡利に住む斎藤ミチさん(94)は物言わぬ「模擬原爆」の破片を前に、記憶の糸をたどるように語り始めた。太平洋戦争での日本軍の戦況悪化に伴い、米軍は日本全土を標的に大規模な無差別爆撃を繰り返した。もはや兵士が戦う前線だけが戦地でなく、「銃後」の暮らしにも戦火が迫っていた。

 終戦間際の1945(昭和20)年7月20日朝。福島市をどんよりとした雲が覆っていた。ミチさんは当時18歳で、家業の農業を手伝う日々。この日は朝から田んぼの草取りだった。弟の隆夫さん=当時(14)=は愛嬌(あいきょう)があって、家族思いで、家の手伝いも進んでする自慢の弟。小雨が降り始めたため、弟が草取りを代わってくれた。「いり豆食べて」と手渡すと「そろそろ行くよ」と答えて田んぼへ向かった。いつもと違う寂しげな表情だったという。

 その後、午前8時30分すぎに空襲警報が鳴り響き、米軍のB29爆撃機の飛行音が聞こえてきた。「福島に爆弾が落ちたことはない。だから気にせず農作業の準備をしていた」。B29から模擬原爆が投下され、爆発ですさまじい音と閃光(せんこう)が放たれた。外で地下足袋を履こうとしていたミチさんは爆風で数メートル吹き飛ばされた。爆風は半径約2キロの建物に影響を及ぼしたとされる。

 「気が付くと黒煙がもくもくと上がっていた」。家から直線距離で約500メートル、隆夫さんが農作業をしていた田んぼ辺りだ。両親と急いで向かうと、爆弾が落ちた田んぼに直径約35メートルの大穴が開き、周りの土は盛り上がっていた。その近くに隆夫さんが倒れていた。「顔は無傷だったが、腹に爆弾の破片が当たって、腸が切れ、飛び出ていた。即死だったと思う」

 隆夫さんを担架で家に運び、庭先で泥を洗い、きれいにしてから布団に寝かせた。せめておなかを満たしてあげようと「急いで炊いたご飯を弟の腹に泣きながら詰め、さらしで巻いて弔ってあげた」。その後、自宅近くの畑から爆弾の破片を見つけ、悲劇を忘れないように保管してきた。後に隆夫さんの供養のため菩提(ぼだい)寺である瑞龍寺に預けた。

 爆弾の正体が原爆の投下演習だと知ったのは、しばらくたってからだった。米軍資料によると、福島駅近くの軍需工場を標的にしたが、風に流されて渡利に落ちた。「当時はお国のためとの考えしかないから、弟の不運な死を受け入れるしかなかった。でも、今なら戦争ほど無駄で、ばかなものはないとはっきり言える。生きている限り、平和の大事さを訴えたいね」