【特集・戦後76年】記憶にない父の存在 硫黄島訪れ戦死を実感

 
「どんな理由でも戦争は絶対にあってはならない」と話す添田さん

 「額の中にいるのが父親だよ」。郡山市の添田正三さん(81)が幼い頃、母から言われた言葉だ。添田さんの家には、添田さんがよく知らない一人の男性の写真があった。添田さんには、太平洋戦争で戦死した父鹿三(しかぞう)さんの記憶がない。鹿三さんの遺骨は今でも、福島から千キロ以上離れた硫黄島に眠る。

 鹿三さんは1944(昭和19)年2月に出征した。独立歩兵第309大隊の一員として戦い、最大の激戦地の一つとされる硫黄島で命を落とした。詳しい最期は不明だが、防空壕(ごう)内で米軍の火炎放射によって亡くなったとされている。35歳だった。

 まだ幼かった添田さんにも戦争の記憶は、おぼろげながら残る。ある日、住んでいた熱海町(現郡山市)の小高い場所にある太い桜の木に登った。そして南東方向を見ると「まちが真っ赤っか」。郡山市中心部に集積していた工場などが攻撃され、多くの命が奪われた郡山空襲だった。

 戦時中は、サイレンがよく鳴り響いた。母や祖母たちの「いぐぞぉー」という声を合図に、頭巾をかぶって、風などから家を守る雑木林の中をすり抜け、家の脇に掘った防空壕に逃げ込んだ。それはもう、習慣化していた。

 近所には添田さんと同じように父親が戦死した友人が数多くいた。そのためか、父親がいなかったことを不思議に思ったことはない。大きくなるにつれ、鹿三さんの話を聞く機会も増えた。「率先して何でも取り組み、人望が厚い人」「誰にでも分け隔てなく接する人」。尊敬される人だったのだろう、みんなが褒めてくれた。ただ、いくら聞いても、実感は湧かなかった。

 鹿三さんという存在がはっきりしたのは、慰霊のため硫黄島に足を運んだ時だ。島内を見渡すと、高い建物は見当たらない。「これでは隠れる所もない。逃げようもなかったのだろうな」。島内を歩くと、急に父親が戦死したことを実感した。島内のどこかでいまだに眠る鹿三さんを思いながら、島内の献花台に花とジュース、そして父が好きだったという酒を供えた。

 「当時は、生きていくために何でもやるしかなかったとは思うが、国や人種が違っても武力ではなく、話せば分かる。戦争は絶対にあってはならない」

 県遺族会の副会長を務める添田さんは、15日に都内で行われる戦没者追悼式への出席はコロナ禍でかなわないが、同日に福島市の県護国神社に参拝する予定だ。「追悼式の欠席は残念だが、ご苦労された父を思い、そして平和を願い、献花したい」(影山琢也、国分利也)=おわり