志願の10キロ圏捜索 松本警察庁長官退任、福島県への思い語る

 
防護服を着て原発10キロ圏内での行方不明者捜索に入った松本本部長(左から2人目)=2011年4月、浪江町(県警提供)

 22日付で警察庁長官を退任した松本光弘氏(60)は福島民友新聞社の取材に応じ、福島県警本部長当時に発生した東日本大震災、東京電力福島第1原発事故の対応を振り返るとともに「第二の故郷」とする本県への思いを語った。(聞き手・影山琢也)

 ―震災時、県警本部長として災害救助や治安維持の陣頭指揮を執った。
 「未曽有の事態だった。震災による津波や原発事故で多くの住民が避難を強いられた中、県警として、行方不明者を捜したいという県民の思いを代弁したかった。原発事故で、最初の課題となったのは放射能で汚染された地域での捜索など、警察活動をどう行うかだった。空間放射線量を測定して地図を作り、県警職員に個人線量計を配備するなどして基準を設けた。その上で原発に近い地域で活動した。県警職員も福島県民。県民として行方不明者を一人でも捜そうと力を尽くした。次の課題は避難によって財産だけ残った地域の治安を維持することだった」

 ―2011(平成23)年4月、県警は第1原発から10キロ圏内での行方不明者の大規模捜索に踏み切り、松本本部長自ら現地に入った。
 「当時、特に東京などでは『福島県全域が危ない』というようなイメージが流布していたが、職員の安全を確保した上で行方不明者を捜索する自信があった。そのことを伝えるには、本部長だった自分が行くのが一番だろうと考えた。もっと早い時期に行きたかったが、災害警備全般の指揮を執るために県警本部を離れることができなかった」

 ―震災が警察行政に与えた影響は。
 「都道府県警は地元に密着し、地元のために活動している。震災が発生し、福島県警だけでは対応するのが難しかった中、全国から多くの応援部隊が来てくれた。長官の立場で言うのも変かもしれないが、『警察ってすごいな』と思った。『有事には全国一体となって動けるんだ』と。普段は都道府県警として事件事故に対応し、いざという時には全国の『警察力』を集中させる。災害警備に限らず、最近では特定危険指定暴力団工藤会の件など、大きな事案が起きた時、都道府県警だけに任せるのではなく、警察庁が主導権を握って全国的な体制を取らないと治安を維持できないこともある。そのための体制整備が必要だと改めて思った」
 「災害警備は事前に備えをしているかどうかが大切だ。福島県警も当然訓練をしていた。例えば津波対策の大規模訓練を10年11月に相馬市で行った。訓練は震災時に力となった。訓練をすることで一定の技術が身に付き、装備資機材の使い方などが分かる。訓練は重要だと再認識した」

 ―東京五輪の聖火リレーは福島県をスタートした。野球・ソフトボール競技も開幕戦などが福島県で行われた。
 「東京五輪が新型コロナウイルスの影響で1年延び、福島県では無観客で試合が行われた。聖火リレーが福島県から始まり、野球、ソフトボール競技とも日本が金メダルを獲得した。福島から良いスタートを切れたことは素晴らしいことだ。警備のため昨年、Jヴィレッジとあづま球場を視察した。その時点で準備はほぼ万全だと感じた。その後の1年はコロナ禍の情勢変化に合わせていかに計画を練り直すかだったが、福島県警は万全に行ってくれた。テレビなどを通して福島の魅力を世界に発信できたのではないか」

 ―福島県への思いは。
 「福島県は第二の故郷だ。震災があったからではない。震災で思いが強まった面はあるが、震災の時点で、本部長となって1年半が経過していた。実は震災が起きた11年3月11日の朝、『東京に戻る』との内示を受けていた。その時の思いは、福島はすごく良いところだったというものだ。語弊があるかもしれないが、福島県には古き良き日本が残っている。いろいろな人との触れ合いがあり、休みの日には県内を歩いた。県警本部の近くでは阿武隈川の流れや吾妻小富士の山並みなどの景色が好きだった。震災で異動発令は1年延期されたが、震災後の1年、そして福島県を離れた後の9年、福島県民を治安面から支えるつもりで取り組んできた」

 ―最後に県民にメッセージを。
 「さまざまな厳しい状況は残っているが、前向きに、着実にいい社会に向けて歩んでほしい。福島県にまた出入りさせてもらいたいと思っている