連載【勢津子さま遺品公開〈上〉】 苦境の会津に「希望の光」

 
会津若松市の御薬園内にある勢津子さまの顕彰碑

 1928(昭和3)年9月28日、会津の歴史に輝かしい一ページが加わった。この日、昭和天皇の実弟・秩父宮と、第9代会津藩主松平容保(かたもり)公の孫勢津子さまの結婚の儀が行われた。戊辰戦争で朝敵とされた会津藩。会津の人にとって勢津子さまの輿(こし)入れは、この汚名をそそぐ「希望の光」と語り継がれている。

 勢津子さまは09(明治42)年、容保公の四男で後の初代参院議長松平恒雄の長女として英国ロンドンで誕生した。当時は恒雄が外交官だったため幼少期から海外生活が長かった。

 秩父宮との縁談は27年の米国在住中に松平家に伝えられたが、当初、恒雄は「ごく普通に育った娘にはその地位を全うする力がない。しかも祖父(容保)が朝敵の汚名を受けた身で、その孫が天皇の直宮妃になることはあってはならない」と使者の説得に応じなかったという。

 勢津子さま自身も、宮家に上がれるような教育を受けておらず、家族が伸び伸びと暮らせなくなると案じ、結婚を固辞していた。だが、養育係の高橋たかの一言がこの気持ちを一変させた。「皆さま、会津魂をお持ちでございます」。回想記では「『会津』の二字が、垂れ込めていた黒い雲の間から射(さ)し込む光のように私の行くべき道を照らし出してくれた」と記している。そして翌28年に結婚の儀が執り行われた。

 勢津子さまの名前の漢字は元々は「節子」だったが、当時の皇太后(大正天皇の皇后)が「節子」(読み方は「さだこ」)さまだったことから結婚の儀の前に、伊勢の「勢」、会津の「津」を取って「勢津子」と改名した。

 皇室に入ってからは宮中行事などの公務を務めたほか、国際親善やスポーツ、学術振興に尽力された。特に結核予防会総裁として長く結核予防活動に取り組み、95年8月25日、85年間の生涯を閉じた。

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 尾張徳川家から会津若松市に寄付された勢津子さまの遺贈品が10日から、同市の御薬園で一般公開される。公開に合わせ、勢津子さまの歩みと遺贈品の由縁を紹介する。