南三陸「心の復興」道半ば 昨秋道の駅開所、ハード面一区切り

 
民間震災遺構「高野会館」前で佐々木さん(左)を取材した記者たち=8日、宮城県南三陸町(河北新報社提供)

 東日本大震災からまもなく12年となるのを前に、震災の津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に取材に訪れた。町が「復興事業の集大成」と位置付けた道の駅さんさん南三陸が昨年秋に開所し、ハード面での復興は一区切りついた形だ。だが、住民の話からは心情面などのソフト面の復興についてはいまだ道半ばにある現状が浮かび上がった。復興の進度が異なる他県の被災地で、本県と重なる課題などについて考えた。

 (浪江支局・渡辺晃平)

 取材は、全国の地方紙や地方局が連携して読者参加型の調査報道に取り組むジャーナリズム・オンデマンド(JOD)パートナーシップで、震災の風化防止などに取り組む企画「#311jp」の記者講座の一環。全国各地の地方紙記者と共に8日に取材した。

 南三陸町は震災の津波で中心部が壊滅し、800人を超える犠牲者が出た。住家の6割が流失し、住民は高台に集団移転した。かさ上げされた中心部には道の駅や南三陸さんさん商店街のほか、民間震災遺構「高野会館」などが並ぶ。震災の記憶と教訓を残しつつ、真新しい建物群が整備された町。東京電力福島第1原発事故によっていまだ町域の8割で人が住めない浪江町に暮らす記者の目には、復興は一段落しているかのように映った。

 町の果樹農家大沼ほのかさん(24)と、町シルバー人材センター常務理事の佐々木真さん(51)の2人に問いかけてみた。「南三陸は復興したと思いますか」。大沼さんは「かつて農地に囲まれた町並みが変わったことに寂しさが募る」、佐々木さんは「多くの人たちが津波で亡くなった。そのモヤモヤ感はまだ胸の中に残る」とそれぞれ心情を吐露した。2人の話に共通していたのは、「心の復興」がいまだ成し遂げられていないという課題の存在だった。

 心の復興は、原発事故により今なお復旧のステージにさえ立てていない地域を多く抱える本県にとっても重要な課題だ。少しずつ復興への歩みを進めていこうとしても、心は過去に取り残されたままという県民は少なくない。今後の支援の在り方が問われている。

 一方、2人は、震災による変化には前向きにとらえることができる部分もあると考えている。その一つは、世界中からの支援がきっかけで、閉鎖的だった町に新しいことを受け入れようとする雰囲気が醸成されたことだという。大沼さんは「震災があったから人の意識が変わった。そんな南三陸の人たちが好きだから、私も頑張りたい」と決意をにじませた。

 再生に向けた新しい挑戦は本県でも多数行われている。復興への道のりはまだまだ遠いが、被災地のかつての住民と新しい住民が手を携え、前向きな復興が進むことを願う。