両親連れ出せず、後悔 津波は「いち早く避難してほしい」

53年間ずっと両親と暮らしてきたが、12年前のあの日、引き離された。1人で暮らす南相馬市原町区の団地で宮口公一さん(65)は「避難してくれたら、こんなことにはならなかった」とつぶやいた。東日本大震災から11日で丸12年。悔しさとともに家族で過ごした最後の記憶が鮮明によみがえってくる。
「行ってきます」。2011年3月11日の午前7時、いつもと同じ朝の光景だった。海岸から約100メートル、同市小高区にあった自宅で父親の貝治(ともはる)さん=当時(75)、母親のキクさん=当時(76)=と3人で暮らしていた。朝ご飯を食べ、2人に声をかけてから出勤した。
しかし「ただいま」は言えなかった。12メートルの津波が自宅をのみ込んだ。地震発生時、東京電力福島第2原発で作業をしていた宮口さんは地震の対応に追われ、職場を離れることができなかった。12日午前2時、両親と連絡がつかないまま、たどり着いた自宅は基礎ごとなくなっていた。
福島第1原発から10キロ圏内にあった故郷は原発事故により立ち入り禁止区域となり、当初、行方不明者の捜索は行われなかった。捜索再開後の4月下旬、自宅から約1キロ離れた場所で貝治さんが、約500メートルの場所でキクさんが変わり果てた姿で発見された。
後になって聞いた話だが、近所の人が宮口さんの両親に「一緒に避難しよう」と呼びかけたが「家の片付けをしてから」と言って応じなかったという。「なぜ逃げなかったんだ」。12年間、両親に問い続けている。
11日に福島市で行われる東日本大震災追悼復興祈念式で宮口さんは遺族代表の言葉を述べる。「避難指示が出たら、いち早く避難してほしい。これ以上、自分のような遺族を増やしたくないと訴えたい」
貝治さんは一度も怒ったことがなく、キクさんは口うるさいくらいに世話を焼く人だった。3年前から住み始めた団地の一室には納骨できていない骨箱が置かれている。「まだ2人がいる気がしてね」。2人のぬくもりを感じながら今を生きている。(坪倉淳子)