【未来この手で】第2部・七転び八起き 双葉の懐かしい味復活

 
中野地区で「双葉の味」であるペンギンを復活させた山本さん

 伊達屋 山本敦子さん 51

 「ペンギンを復活させるというけど、一体誰がやるんだろうか」。東京電力福島第1原発事故により横浜市といわき市の二重生活をしていた山本敦子は、実家の伊達屋が営む双葉町のガソリンスタンドで書類を仕分けしながら考えていた。ペンギンとは、山本の母が切り盛りし、JR双葉駅前で1983年ごろから約20年間営業した伊達屋のファストフード店である。

 伊達屋は創業を明治期にさかのぼる企業で、経営者の吉田家に生まれた山本は、結婚した後に双葉町内でピアノと電子オルガンの教室を開いていた。原発事故後は、弟の吉田知成が住んでいた横浜市に避難した。両親も避難を余儀なくされ、ペンギンのあった伊達屋本店は取り壊された。

 転機となったのは知成が家業を継ぎ、2017年に当時は帰還困難区域だった国道6号沿いのガソリンスタンドを再開させたことだった。夫が伊達屋の常務としてスタンド業務に参画したため、山本も仕事を手伝うようになった。その頃、双葉町は比較的放射線量が低かった沿岸部の中野地区などを「復興産業拠点」とし、先行して避難指示を解除する計画を進めていた。

 湧き上がった使命感

 知成は、中野地区の拠点として産業交流センターが建設されることを知ると、ペンギンの入居を申し込んだ。最初は人ごとだった山本も「もし双葉の人が帰ってきた時、全然知らない人がやっていたら意味あるのかな」と思い始めた。ペンギンで母を手伝っていた経験もあり「私以外に誰がいるの」と考えた。商売熱心でかわいがってくれた祖父が天国から「敦子、やれ」と言ってくれたような気もして、ペンギンのマネジャーになることを決めた。

 20年3月の中野地区の避難指示解除を受け、産業交流センターが開所したのは10月1日。ペンギンもその日に開店し、双葉町民が集って懐かしのハンバーガーなどを味わった。「胸がぐっときた」と喜んだが、そこからが苦難の道だった。新たなペンギンの利用者は復興事業の作業員らが多かった。殺到する注文をこなすのに精いっぱいで、オーダーミスもあった。

 「前のペンギンの経験だけでは駄目だ」と悩み、客からひどく叱られた時には帰りの車で涙を流した。だが、従業員一丸で工夫を重ね、3カ月ほどで業務が安定するようになった。「ハンバーガーだけじゃなく、お客さんが喜ぶように弁当も出そうか」。ふと次の一手を考えていることに気付き、山本は商家の血が自分に流れていると実感した。

 中野地区の避難指示解除は、ペンギンの復活に結び付いた。そして、山本の同級生の福田一治が関わっている、双葉ダルマ市の継続にも重要な役割を果たすことになる。(文中敬称略)