継承・松川事件【無罪から60年・上】 記憶や教訓...風化との闘い

福島市松川町で列車が脱線、転覆し、乗務員3人が死亡した「松川事件」は12日、無罪判決確定から60年を迎える。逮捕、起訴された20人全員が最終的に無罪となったことで「戦後最大の冤罪事件」ともされる歴史的大事件。時間の経過とともに事件の風化や関係者の高齢化、他界が進む中、継承される記憶や教訓を考える。
最後の「証言者」他界
「自白を『証拠の王』とする判断が根底にある限り、冤罪(えんざい)事件はなくならない」―。死刑判決の絶望から闘い続けて潔白をつかんだ実体験から、集会などで冤罪のない社会の実現を訴え続けた松川事件の元被告最後の生存者、阿部市次さんが昨年10月、老衰のため99歳で亡くなった。一連の事件の犯人として逮捕、起訴された全員が他界し、関係者は当時を伝える"生の声"を失った危機感を募らせる。
「年月には勝てない。いつかその日を迎えると分かっていたが、やはり衝撃は大きかった」。松川事件の資料収集や研究に携わった伊部正之福島大名誉教授(81)は、元被告全員が亡くなったことに肩を落とす。今も謎に包まれたままの真犯人など事件の解明は「まだ半分」。生々しい経験を重みのある言葉で語る証言者がいなくなり、さらなる風化の加速も懸念されるが「事件を解明し続けることが残された者の使命。ここで松川を終わらせない」と継承の必要性を主張する。
松川事件が社会にもたらしたものは何だったのか。伊部氏は「国民が裁判について自由に意見を発言し、参加することの正当性を証明した」と指摘する。松川裁判以降、刑が確定した冤罪事件が再審によって無罪が認められる事例が出てくるなど、国民の人権への関心が高まり、司法に対する概念を変える先駆けとなった。
勝ち取った「無実」
1963年9月12日、最高裁は差し戻し審での高裁無罪判決を不服とした検察側の上告を棄却。14年に及ぶ裁判の末に全員の無罪が確定し、元被告や支援者らは喜びに沸いた。その後、元被告らは「日本の裁判史上未曽有の刑事事件」を二度と起こさせないために国家賠償請求訴訟を起こす。専従の担当弁護人を務めた鶴見祐策弁護士(89)は「警察官、検察官の権力犯罪を追及した画期的な国賠裁判だった」と振り返る。
「原告らは全て無実である」。国側の違法、過失を認定した国賠訴訟の一審判決は、罪を認定できなかった「無罪」ではなく、実際に罪を犯していないという「無実」という言葉で断じた。「異例中の異例。人の生死に関わる重大事件で自白の誘導や証拠の隠匿はあってはならないという強い非難を感じた」。二審でも国は敗訴し、元被告らの潔白が二重に証明された。
鶴見氏は、冤罪をなくすために取り調べの可視化や裁判での証拠の全面開示などが不可欠と考える。「再審法の改正など司法の民主化は現在でも引き続き重要な課題。そういった意味で松川は今も生きている」。教訓を胸に、司法制度の改革を願う。
※写真=仙台高裁での差し戻し審で無罪判決を喜ぶ支援者=1961年8月8日、仙台市(県松川運動記念会提供)
松川事件 1949年8月17日未明、福島市の東北線金谷川―松川間で普通列車が脱線、転覆し、乗務員3人が死亡した事件。国鉄と東芝の両労組組合員ら計20人が逮捕、列車転覆致死罪で起訴された。一審福島地裁では全員が死刑や無期懲役を含む有罪判決を受けたが最高裁が差し戻し、63年9月12日、最終的に全員無罪となった。裁判の進行に伴い、無実を支持して公正な裁判を訴える「松川運動」が全国的な広がりを見せた。64年8月17日午前0時に時効が成立し、真犯人は今も明らかになっていない。