6文字判明、解読 福島「鎮兵」木簡、西久保遺跡は「役所」か

 

 福島市平石地区の西久保遺跡から出土した東北地方に派遣された兵士「鎮兵(ちんぺい)」の記載がある奈良時代末~平安時代初頭の木簡を巡り、市は17日、木簡の新たな文字が判明したと発表した。解読の結果、木簡には鎮兵が同遺跡周辺で死亡し、その死について遺跡周辺の地域に落ち度がない旨が書かれており、遺跡は役所の機能を持つ有力者の屋敷跡だった可能性があるとしている。

 「兵の死亡に落ち度ない」

 鎮兵は「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載があり、陸奥国(むつのくに)や出羽国(でわのくに)の守備が任務だった。鎮兵の詳しい実態は不明だったが、今回の解読により、療養や死亡に関して国や郡に一定の責務があった衛士(えじ)(都の警護)や防人(さきもり)(大宰府の警護)と同様に取り扱われていた可能性があることが分かったという。

 鎮兵の2文字が書かれた木簡の出土は全国初で、市は9月の発表以降、赤外線画像で不鮮明な文字の解析を進めていた。その結果、木簡の文字は当初発表した18文字ではなく、19文字だったことが判明。新たに6文字が解明され、「出羽国牒下野国司 鎮兵死□減之状不罪郡郷」(出羽国(でわのくに)、下野国司(しもつけのこくし)に牒(ちょう)す。鎮兵死(ちんぺいのし)□減(げん)の状(じょう)、郡郷(ぐんごう)を罪(つみ)せず)と読めることが分かった。

 市によると、朝廷と蝦夷(えみし)の対立が激化した775~806年、下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)を国司と鎮兵が出羽国(現在の秋田、山形両県)に向けて出発し、西久保遺跡周辺で鎮兵が死亡。下野国司が出羽国に鎮兵死亡に関する書状を送り、遺跡周辺にとどまっていた下野国司や鎮兵に出羽国から送られた返答文が今回の木簡だという。鎮兵の人数や死亡した原因、出羽国での任務などは分かっていない。

 これらの結果から、遺跡には国司や鎮兵の滞在に対応できる食料や薬の給付に加え、文書作成や使者の派遣ができる施設または機能があったと推測される。木簡は、死亡した鎮兵を埋葬する際に水辺で行われた儀式で使われた可能性もあるという。

 25日に白河で発表

 市は25日に白河市で開かれる県考古学会で木簡について発表する。また奈良文化財研究所で残る不鮮明な1文字の解析を進め、12月2日に奈良市で開かれる木簡学会で説明したい考え。今後、木簡のレプリカを作成し、来年4月に福島市のじょーもぴあ宮畑で展示する予定で、記者会見で発表した木幡浩市長は「鎮兵の実態を知る重要な資料。活用していきたい」と話した。

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 西久保遺跡 福島市平石地区にあり、国道13号バイパス「福島西道路」の改築事業に伴い来年度まで発掘調査が行われている。松川丘陵の北側に位置し、これまでに奈良時代―平安時代ごろの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、土坑、溝跡、ピット、沢が見つかった。土師(はじ)器や須恵器、中世陶器、金属器なども出土している。