【風評の深層・処理水の行方】処理水...宙に浮く「国民的議論」

 
テレビ会議システムで開かれた処理水に関する勉強会。国民的議論の必要性などが参加者から指摘された

 「あなたはトリチウムについて知っていますか」。福島市に事務所を持つNPO法人アースウォーカーズが6月21日に開いた、東京電力福島第1原発で増え続ける放射性物質トリチウムを含む処理水をテーマにした勉強会の一幕だ。最も基本的な質問に対し、県内外の高校生を含む36人の回答者のうち、約半数が「知らない」と答えた。

 アースウォーカーズは原発事故後、県内で被災地支援の活動を続けている団体だ。勉強会は、処理水に関する経済産業省の意見公募の期限が15日に迫る中、少しでも多くの人に理解を深めてもらおうとテレビ会議システムを使って開催した。

 呼び掛けに応じた参加者は、処理水の問題に比較的関心が高い人たちだ。ところが、政府の小委員会が「現実的な選択肢」とする、海洋と大気への放出を議論するための土台ともいえる、トリチウムの性質や放出した場合の影響などの基礎知識が共有されていないことが浮き彫りになった。

 「処理水について幅広い理解と関心が深まらないままで処分方針が決定されてしまえば、『得体の知れない汚染されたものが流されている』という不安が広がり、風評を招くのではないか」。議論が進むにつれ参加者は危機感を募らせた。

 政府の担当者は、処理水の取り扱いについて「幅広い関係者の理解が前提」と繰り返してきた。しかし、政府が処分方法について直接説明する場を設けたのは、本県の浜通りを中心とした15市町村の議会などに限られている。勉強会で司会を務めた伊藤光雪さん(18)=桜の聖母高卒、中央大=は「国はどこを大切にしようと思って(処分方法を)決めていくのか」と、国民的な議論はおろか、県民への説明すら十分になされていないことに首をかしげる。

 「意見や要望に対する解決策が示されなければ、議論する意味がない」。双葉地方町村会長で双葉町の伊沢史朗町長(62)が憤りを隠さないのは、政府が新型コロナウイルスの感染が拡大する最中、テレビ会議形式などを使って足早に行った、いわゆる「意見聴取会」だ。

 住民を代表して出席した被災地の首長たちは、風評を防ぐためにどのような対策が取られるのかなど、関心が高いテーマについて政府の見解を求めた。しかし、政府は文字通り「意見を聞く」姿勢に終始。地元が望んだ「丁寧な説明」とは程遠いやり方に、苦言を呈する首長は少なくない。

 そんな状況の中、原発から距離が離れている本県内陸部の市町村などで、海洋放出に反対するなど、処理水の処分について態度を明確にする動きが出てきた。3月と6月の定例会で、処理水に関して決議や意見書を可決した市町村は19に及んでいる。

 双葉郡の自治体関係者は「会津や中通りの自治体への政府の説明不足は否めず、不安を招いているのだろう」と、一定の理解を示す。ただ、地上での長期保管を求める意見書が目立つことには「(保管場所は)原発周辺が念頭にあるのだろう。古里に何十年もの間、タンクが置かれ続ける心情は分かってもらえるだろうか」と複雑な心境を語った。

 県民の間、県の内外、農林漁業者と政府、東電。それぞれの関係性の中で、処理水に対する当事者意識や知識、関心などに隔たりがあるのが現状だ。「福島の海で漁業を続けたい」「放出以外の道は本当にないのか」「地元の疑問に十分に答えてほしい」。被災地から上がる切実な声に、政府と東電は答えているのか。「新たな風評」を防ぐための合意形成や手だては、まだ見えていない。

 東大大学院准教授・関谷直也氏に聞く 廃炉と復興のてんびん

 東京電力福島第1原発で増え続け、地上タンクに保管中の放射性物質トリチウムを含んだ処理水が処分された場合、風評は発生するのか。発生するとしたら今、政府には何が求められるのか。処理水の扱いについて議論した政府の小委員会の委員で、県産品の風評被害に関する研究に取り組んでいる東大大学院准教授の関谷直也氏(44)=災害情報論=に見解を聞いた。

 ―政府は新型コロナウイルス感染拡大の影響が続く中、自治体や各種団体の意見を聞く会合を県内外で開いている。どのように評価するか。
 「廃炉を進めていく中で福島県民、原発周辺地域の人たちを苦しめるようなことがあってはならない。最善の方法を見いだすには、県民や国民に現状を十分に理解してもらった上で、政府が決断しなければならない。しかし、コロナ禍で処理水への関心が高まっていないのが実情だ。政府は地元の理解が得られるよう説明責任を尽くす必要があり、それが十分に果たされていない状況で政治決定するのは民主主義のプロセスとして非常に問題がある」

 ―昨年12月に発表した風評被害の調査結果では、仮に処理水を安全性に問題がない状態で海洋放出した場合、県産海産物の購入を控えると回答した人の割合が、現状の2割から3割に増えるという結果が出た。分析は。
 「2013~14年の調査では、県産品の購入を控えたい人の割合が3~4割だった。当時は風評被害が一番問題だった時期だ。今回の結果を見ると、現状と比べれば1割の上昇だが、原発事故直後の状況に戻るという意味では影響は大きいといえる。購買層の拒否率が3割になれば、仕入れる流通業者の不安も大きくなり、県産品の出荷が困難になると思う」

 ―そもそも風評被害はなぜ起きるのか。
 「風評被害という以上は、安全が担保されていることが大前提だ。例えば事件や事故が起きることで報道の量が増え、人々の不安感が大きくなる。『安全な物を食べたい』という心理から現地の産品が安全でも別の産地の物を選んで買うようになり、経済被害が生じるという仕組みだ」
 「処理水の場合では、その状態や処分までの過程が十分に知られていないから、多くの人が不安を感じる。消費者の志向に合わせ、流通業者も積極的に仕入れる意義がなくなり、流通が滞ることによる経済被害が出る。こうした問題の解決が見込めない状態で処理水の処分が始まれば、被害が大きくなるのは明らかだ」

 ―政府は処分に伴う風評被害を防ぐための具体的な対策を示せていないが、どう見るか。
 「これまで消費地での対面販売や説明会、広告などできる限りの方策を、ほぼ実行してきた。これらの予算を増やし、量を増大させることはできても、決定的な対策はないのではないか。仮に処分が始まれば、現状に上乗せされる形で風評被害が起こり得る。(社会に与える)最初の衝撃をいかに抑えられるかが大切だ。処分開始までの時間が経過するほど衝撃は小さくなると考えられ、時間をかけることが最大の風評対策になると思う」

 ―本県沖で全ての魚種が漁獲できるようになり、県漁連が本格操業の再開に向けた検討を進めている中で政府が議論を進めていることをどう考えるか。
 「東日本大震災から10年がたとうとしているが、本県の漁業関係者や流通関係者は、東京など首都圏の消費地の販路回復を目指している状況であり、漁業再生はまだ緒に就いた段階といえる。今の時期に、海洋放出が決まれば漁業への投資や後継者の問題に深刻な影響を及ぼす。政府が今、海洋放出の是非を議論することには疑問がある」

 ―小委は提言で「処分の開始時期、処分量、処分期間、処分濃度について、関係者の意見を踏まえて適切に決定することが重要だ」と指摘した。政府はどう対応すべきか。
 「2022年夏にもタンク容量が満杯になると試算しているのは、あくまで東電だ。政府は東電、漁業関係者、地域住民の間で調整すべき役割であり、東電の立場に立つようでは復興を進めることにはならない。廃炉の進展と、漁業を含めた浜通りの被災地の復興はそれぞれ重要な課題だが、どちらの優先順位が高いと見ているのか。経済被害の程度と、タンク増設のコストをてんびんにかけることになる。処理水の処分を優先させるがために、経済被害を生み出してしまい、被災地の第1次産業に壊滅的なダメージを与えてしまうことは、とうてい理にかなわないだろう」

 せきや・なおや 新潟県出身。慶大総合政策学部、東大大学院修士課程を経て同大学院情報学環総合防災情報研究センター准教授、福島大食農学類客員准教授、県の新生!ふくしまの恵み発信協議会、東日本大震災・原子力災害伝承館研究・研修委員会のメンバーなどを務める。