福島の海、俺が継ぐよ 調査船から漁船へ、親子3代の挑戦

 
父友江さん(中央)から家業を継ぐ忠さん(右)。左は悠斗さん =いわき市四倉町・四倉漁港

 「福島には良い魚が多くいる。どこにも負けないような福島ブランドをつくって風評をはね返したい」。県水産資源研究所調査船「拓水」の船長渡辺忠さん(56)=いわき市=は今月、早期退職して漁師に転身し、父友江さん(90)の船に乗る。長男悠斗さん(24)を含め、親子3代で本県水産業の復活に挑む。

 忠さんは県職員として長年、福島の海と向き合ってきた。海の種苗の増殖や管理、研究などを担う県水産資源研究所の調査船「拓水」の仕事は、沿岸部での水産資源調査や漁場の探索だ。ヒラメやカレイなどの幼魚の成育状況や水揚げ量から今後の漁獲高を予測調査し、結果を基に県内漁業者へ提言も行っている。

 平日は県職員として働き、週末は友江さんを手伝ってきた。休む暇はなかったが「いつかは家業を継ぎたい」という思いが常にあった。

 そんな中で、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きた。

 原発事故後、本県の漁業は試験操業の形で再開されたが、風評は根強く、それは友江さんの船も例外ではなかった。

 忠さんには忘れられない経験がある。「なんでじいちゃんの魚は売れないの?」。当時小学生だった次男からの率直な質問に言葉が詰まった。「何と返せばいいか分からなかった」

 その後も、長引く風評に「福島の漁業はもうおしまいなのかなと思ったこともあった」。それでも漁業に携わる者として、少しでも状況が好転すればと調査の仕事を全うしてきたつもりだ。

 なぜ今、苦境にある海に出るのか。「なにくそ根性だね」と忠さん。簡単にはへこたれない。これは、昭和気質な友江さんの教えでもある。はっきりとした将来が描けているわけではない。でも「続けていればいつか報われる気もするんだ」。

 漁師になったら大切にしたいことがある。「顔の見える漁業」だ。平日は漁業、休日は釣り船を営む友江さんを手伝う中で見えてきたのは、釣り船に乗る人の楽しそうな笑顔だった。「笑顔の輪が全国に広がれば、風評は少しずつなくなるのではないか」。忠さんはそう信じている。「釣り方やおいしい食べ方ならいくらでも教えたい」

 「漁師の私たちも、食べる人たちの顔を想像したい」とも考えている。取った魚が食卓に並ぶことを思い浮かべ、丁寧な作業を大切にしたい。「気持ちの上での小さな違いかもしれない。でも、その努力の積み重ねが福島ブランドをつくるはずだ」。海に生きて今年で36年目。父の教えと、漁師としての"初心"とともに、忠さんの新たな挑戦が始まる。(小磯佑輔)

 11年間の歩み

 東日本大震災時は、違法漁業者の取り締まりなどを担う県水産事務所(いわき市)の漁業振興課で調査船「あづま」の船長を務めていた。震災翌年、県水産試験場(いわき市、現県水産海洋研究センター)の調査船だった「拓水」の船長に就任。拓水に乗り始めてから約2年間は、調査の傍ら本県沿岸で海底のどろの撤去作業にも励んだ。2018年、震災で全壊した県水産種苗研究所(大熊町)の後継施設として県水産資源研究所(相馬市)が開所し、拓水は同研究所の調査船となった。それに伴い同研究所へ異動した。