震災11年、亡くなった人の分まで 語り部、記憶と教訓を後世へ

あの日、青く穏やかな海は突如として姿を変え、多くの人の命と日常をのみ込んだ。「最後まで捜してやれなかったことを申し訳なく思う」。東日本大震災から11日で丸11年。高田求幸(もとゆき)さん(83)=南相馬市原町区=の心には今も後悔の念が押し寄せる。
義妹が津波の犠牲
高田さんは親族10人を津波で亡くした。そのうちの一人、義妹の高田宥子(ゆうこ)さん=当時(69)=について、記憶をたどりながら、そっと語り始めた。
「宥子がいない」。避難していた2011年3月11日夜、津波にのまれながらも一命を取り留めた高田さんの弟で、宥子さんの夫でもある故俊英さん=享年(79)=から連絡が入った。俊英さんと宥子さんが住んでいた南相馬市原町区の萱浜(かいばま)地区には、高さ約20メートルの津波が押し寄せ、77人が犠牲となった。
一夜明けた12日の早朝、高田さんと俊英さんは自宅があった場所を中心に捜したが、うずたかく積み上がったがれきが捜索を阻んだ。高田さんは「(宥子さんを)何とか見つけてあげたい」との思いを抱えたまま15日、東京電力福島第1原発事故に伴い、宮城県丸森町に避難した。
震災発生から10日ほどたち、宥子さんは遺体で見つかった。「原発事故があったからとはいえ(見つかるまで)捜索をせずに避難したことが悔やまれる」。時折、生前の姿を思い出すことがあるという。
高田さんは東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)の開館当時から語り部として活動し、震災の記憶と教訓を後世へと伝え続けている。来館者に被災した経験を話すとき、必ず伝える言葉がある。「いま一度自分の防災意識を見直してほしい。迫り来る災害で新たな犠牲者を出さないためにも」
11日に福島市で行われる東日本大震災追悼復興祈念式。高田さんは遺族代表として参列し、11年の思いを追悼の言葉にのせる。「大切な人を亡くしたことなど、つらい過去はもう元には戻らない。宥子さんや亡くなった人の分まで前を向いて生きていきたい」
眼前に広がる青海原は、優しい波を打っていた。(福田正義)
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