親族奪った海、恨めない 「育てられた」亡き人思い漁へ

 
港に立つ桜井さん。「両親らを海に持っていかれた。それでも、海を離れることはできない」と話した=相馬市・松川浦漁港

 桜井俊夫さん 68 相馬市

 船の上から輝く水面(みなも)を眺めていると、震災で亡くした両親や兄夫婦の顔が脳裏に浮かんでくる。「何で千年に1度の大津波が、自分が生きているうちに起こったのか」。相馬市原釜の漁師桜井俊夫さん(68)は震災後度々、自分と父母らの運命に思いを巡らせてきた。

 「兄(あん)にゃ、津波が来るぞ。船出さねっか駄目だぞ」「分かった。先に行ってろ」。2011年3月11日、地震の直後、桜井さんは自宅近くの実家に向かい、漁師だった兄の照夫さん=当時(58)と言葉を交わした。

 実家には父の勝さん=同(82)と母キイさん=同(80)、照夫さん、その妻の延子さん=同(62)=の4人が暮らしていた。その時キイさんは落下した屋根瓦を片付けており、勝さんは「ここまで津波は来ない」と落ち着いた様子だったという。

 桜井さんが船着き場に行くと、波が引いて、見えるはずがない海の底があらわになっていた。「ただごとではない」。すぐに船を出した。30分ほど船を走らせ、沖で様子をうかがっている時だった。「あれを見てみろ」と仲間の漁師。南の方から真っ黒な水煙の塊が迫っていた。津波の第1波は何とかやり過ごしたが、すぐに次の波が近づいてきた。乗り越える時の記憶はない。気付くと体は血だらけだった。

 まだ暗い早朝、港へ戻ろうとすると、海面に無数の畳が漂っていた。薄明かりに照らし出された原釜は一面ががれきで埋まっていた。

 両親の遺体は自宅から数百メートル陸側に離れた場所で見つかった。まるで手をつなぐようにして横たわっていた。2人で逃げる様子が頭に浮かび、涙で顔を見ることはできなかった。義姉は自宅近くで見つかったが、兄の行方だけはいまだに分からない。兄が乗った幸勝丸が、沖に出る前に沈んだようだということは分かっている。潜水士でもある桜井さんは、港の中を潜って捜したが、手掛かりは見つからなかった。

 その年の7月、4人の葬式を出した。形見のない兄の骨箱には、男物の下着を1枚入れた。

 たった1日の間に4人を奪った海。しかしそれは、漁師として長く親しんできた海でもある。恨む気持ちは生まれなかったが、一方で父母らへの思いは募る。

 「海に育てられここまできた。離れることはできない」。深く刻まれた亡き人の思い出とともに、きょうも沖へと向かう。(丹治隆宏)

 【12年の歩み】

 12年前、桜井さんの自宅には、出産のため里帰りしていた次女がいた。次女はその後、元気な女の子を産んだ。桜井さんにとって4人目の孫となった。東京電力福島第1原発事故を受けて漁の操業自粛が続いたため、桜井さんもがれきの仕分けなどの仕事に就いた。だが、海への思いは絶ち難く、試験操業が始まると、再び漁に出るようになった。孫たちの成長は、桜井さんに喜びを与えている。震災直後に生まれた孫はこの春、小学6年生になる。