堤防に込めた「守りたい」 建設業の使命感、母と祖父に胸張る

 
南相馬市の工事現場で業務に当たる緑川さん。「復旧は自分の役目」と使命感を持って取り組んできた

 緑川春美さん 55 南相馬市

 母と遺体安置所で対面したのは、4月になってからだった。「違う人だ」。一緒にいた兄は混乱した様子でそう言った。

 東京電力福島第1原発の20キロ圏内に位置する南相馬市原町区小沢に、緑川春美さん(55)の実家があった。2011年3月11日、実家にいた母の稲田リエ子さん=当時(66)と祖父の稲田保次さん=同(90)=が逃げ遅れて津波にのまれた。祖父の遺体は2日後に見つかったが、母は発見の連絡がないまま、原発事故で捜索ができなくなった警戒区域の中に取り残された。

 石川建設工業(南相馬市)の社員だった緑川さんは3月下旬から、現場監督としてがれきの撤去など復旧作業に携わった。母と同じくらいの年齢の人が発見されたと警察から連絡を受けるたび、遺体安置所に向かった。

 20キロ圏内に捜索隊が入れるようになった4月にようやく見つかり、DNA鑑定で間違いないと分かったのは5月。すぐに荼毘(だび)に付された。

 悲しみに暮れながら毎日を過ごした。たくさんの人と復旧の仕事をすることで気を紛らわせた。その秋、決して忘れることができない工事を担当することになった。相馬市蒲庭地区の海岸堤防工事だ。

 がれきが散乱した道路を通って工事現場に向かう日々。不意に悲しみが襲ってくることもあったが、「建設業に携わる者として、復旧は自分の役目」。強い使命感を持って臨んだ。

 5年の歳月を経て、約200メートルの堤防が完成した。「これで津波が防げる」。おおらかな性格で孫たちにとても好かれていた母、戦争も体験していて、とても生真面目な性格だった祖父―。工事が完了した時、2人の顔を思い出しながら人知れず涙をこぼした。

 海岸に延びる堤防を見るたび、緑川さんは、そのコンクリートの中にたくさんの人の復興への願いが詰まっていることを思い出す。「自分にとっては、かけがえのない子どものようです」。前を向くきっかけをくれた堤防を思い、優しい笑みを浮かべた。(坪倉淳子)

 【12年の歩み】

 故郷の小沢地区は津波で壊滅状態となり、震災後、災害危険区域に指定された。実家の跡地には防災林が広がっている。「土木人生における師匠」と仰ぐ上司が3年前、67歳の若さで亡くなった。仕事でつらいことがあれば、その上司の言葉にいつも救われてきた。今は石川建設工業の土木部次長として、工事が正しく進んでいるかをチェックする社内検査員を務めている。