富岡高「復校」校歌に込め 元校長ら毎月合唱

 
「復校富高」を願いながら校歌を合唱する青木さん(左)ら参加者=富岡町

 東京電力福島第1原発事故に伴い休校となった富岡高で、「復校」を信じて毎月、校歌を歌い続けている人たちがいる。思い描くのは生徒の笑顔であふれたかつての風景。元校長の青木淑子さん(75)は「東日本大震災前、この場所で普通の学校生活が送られていた。その記憶を忘れないためにも、学校が再開するその日まで歌い続けていく」と誓う。

 震災から4年後の2015(平成27)年8月、校舎の片付けをするため震災時の生徒たちが校内に立ち入ったことがきっかけとなった。青木さんが校内を歩いていると、生徒たちが歌う校歌が聞こえてきた。最初は数人だったが、次第に広がり、いつしか学校中に響くようになった。

 「生徒の思いが詰まった学校を何としても残さないと」。青木さんは母校を愛する生徒たちの思いに、慣れ親しんだ校歌を歌い継ぐことで、学校の記憶を伝えていくことを決意。当時のPTAや同窓会など、当てが付く限り活動への参加を呼びかけた。

 本当に人が集まるのか不安があった中で迎えた15年10月の最初の活動日。青木さんの考えに共感した10人以上が集まり、「母校で校歌を歌い隊」が発足した。以降毎月1回、校舎に向かって校歌を歌い、思い出話をして解散する。仙台市やいわき市など、避難先から通う人もいるが、活動が途絶えたことは一度もない。青木さんは「それだけ『富高』への思いが強いんだよね」と笑顔を見せる。

 「吾等(われら)~が~学校(まなびや)~」。歌い隊のメンバーは今月も歌声を響かせた。「校歌を歌っているときは思い出がよみがえってくる」と青木さん。時折校舎を見上げて思いをはせた。最近はマスク越しでの合唱だったが、その歌声は、卒業生をはじめとした多くの人に届いているはずだ。

 震災で被災した県内外の学校が歴史や伝統、思い出を次代につなごうと模索する。その手段の一つとして校歌を選んだ理由を青木さんはこう説明する。「姿を変えない校歌を歌い続けることで、みんなの思い出や記憶も姿を変えず、ずっと残していけるはずだから」

 震災、原発事故から12年が過ぎた。高校のある富岡町は、4月1日に特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示が解除され、復興に向けた新たな一歩を刻む。青木さんは「地域がもっと明るくなるためにも富高の復活は不可欠。かつてのように、にぎやかな生徒の声であふれる富岡が戻ってほしい」と願っている。(三沢誠)