【証言あの時】前広野町長・山田基星氏 政府に頼んだのは私だ

 
山田基星前広野町長

 「広野町が警戒区域にかからないように政府に頼んだのは私だ。このことは墓まで持って行くつもりだったが」。前広野町長の山田基星は、2011(平成23)年4月22日に行われた東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域再編の裏側を明かした。

 東日本大震災で生じた津波は福島第1、第2原発を直撃した。建屋が水素爆発し、第1原発の半径20キロに避難指示が出されたことは知られている。第2原発も一時、原子炉の冷却機能を失い、半径10キロに避難指示が出された。

 広野町は第1原発の避難指示にかからなかったものの、町北東部が第2原発から半径10キロに含まれた。原発事故で全町避難し、いわき市に町役場機能を移転させた山田は、町北東部が立ち入りの制限される「警戒区域」になることを知った。

 町北東部には広野火力発電所や工業団地が含まれ、自由な行き来ができなくなれば経済的な損失は大きい。警戒区域の線引きにより町内に分断が生じることも懸念材料だった。山田は、政府の原子力災害現地対策本部長だった松下忠洋(12年に死去)らに「(第2原発の避難指示の範囲は)楢葉と広野の境にするのが本当ではないか」と訴えた。

 4月21日、官房長官だった枝野幸男は第2原発の避難区域を半径8キロに縮小すると発表。枝野はその理由を「第2原発の原子炉は冷温停止状態で重大事故の確率は低くなっている」と説明した。半径8キロは楢葉町と広野町の境。広野町は警戒区域に指定されることなく、22日に全域が「緊急時避難準備区域」となった。山田は「やってくれたのは松下だと思う」と振り返る。

 当時、山田を突き動かしていたのは広野町の早期復興への思いだった。「警戒区域にならなかったことで賠償などは少なくなったかもしれない。だが、工業団地から企業は出て行かず、がれき置き場も北東部に集約して設置することができた。町全体の復興を進めるために欠かせない判断だった」と語る。

 しかし、生活基盤の回復を目指す山田と政府との温度差が復興の壁となった。仮設住宅の建設や除染、学校再開に向けた整備など、あらゆる段階で「財源がありません」「こちらの決めた業者を使ってください」などと言われ、擦れ違いが続いたという。山田は「何か提案があるようなことはなかった」と憤る。

 広野町は12年3月1日に、町役場機能を本庁舎に戻した。役場ごと移転した9町村の中で行政の帰還は初めてだった。ただ、山田は「帰還宣言」をしなかった。「双葉8町村は一つだ。抜け駆けなんてできるわけないだろう」(敬称略)

 【山田基星前広野町長インタビュー】

 前広野町長の山田基星氏(72)に、東京電力福島第1原発事故に伴った避難区域の再編などについて聞いた。

 幹部職員「町長も避難しないと駄目だろう」

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災発生時はどこにいたか。
 「町役場で教育長と話をしていた。すごい揺れだったので町長室に戻った。町長室からは海が見える。波が引き真っ黒な海の底が見えた。しばらくして水平線から白波が向かってきた。本当にものすごい音で震えがきた。車どころか、消波ブロックも流す勢いだった。職員が『逃げろ、高台に避難しろ』と声を上げ(職員や町民を)誘導した」

 ―津波で大きな被害を受けた中、原発の情報は入っていたのか。
 「インフラはほぼ壊滅したが、自家発電で町長室だけテレビをつけていた。どうも第1原発が危ないようだと分かった。その時、何かあれば自分は町に残ろうと考えていた」
 「東電職員から『第1がやばい』という情報を得た職員が私のところに伝えてきた。『もう少し様子を見ようか』などと話していたが、(12日の第1原発1号機の水素)爆発となった」

 ―町の資料によると、12日午後9時ごろに第2原発の職員が町長に状況を説明しに来たとあるが。
 「あまりよく覚えていないが、第2原発は『津波で少しやられたものの、大事なところは問題はない』ということを言ってきた。『じゃあしっかり管理して』と返したと思う」

 ―13日には町長が避難指示を出すが、どのような判断だったのか。
 「(第1原発)3号機が爆発しそうだという情報が入ってきたので独自に避難指示を出した。とにかく、どこでもいいから町外に避難してくれと。背に腹は代えられないから。その後(14日に)3号機が水素爆発した」

 ―避難先に小野町を選んだ。その理由は。
 「避難先を決めようとした時、職員が『福島高専の後輩がいる』と、当時の小野町長の宍戸良三さんの名前を出してきた。『至急連絡を取れ』と指示し、職員が交渉したところ、受け入れてくれることになった」
 「(3号機の爆発を受けて14日午後に)小野町に避難する際、幹部職員に『町長も避難しないと駄目だろう』と怒られた。それで自分も避難することにした。自分の車に乗り、郡山市を経由して小野町に向かった」
 「国道49号で止められスクリーニング検査を受けた。放射線量が高いと言われ、上着と靴を置いていくことになった。(上着と靴は)仕方がないと思ったが、車を取られては移動できないので『車は測るなよ』と言ってそのまま乗っていった」

 ―小野町に役場機能を移した。その時の課題は何だったのか。
 「最初に幹部職員だけを10人ぐらい集めて、これからどうするかを話し合った。職員で食事を作ろうとなり、『町長、お金が欲しい』と言われた。ポケットには2000円しかなかった。そこで、町長の名刺を渡し『これで銀行から借りてこい。責任は俺が持つ』と言った。700万円ぐらい借りてきたと思う」
 「町民は小野町の周辺にも避難していた。県南の首長は温かく地元の施設に受け入れてくれた」

 なんとかして早く復興に持っていきたかった

 ―4月15日に、いわき市に役場機能を移すが、どのような判断だったのか。
 「広野に近いところに落ち着こうと思った。幹部職員と相談して、いわきしかないとなった。当時の渡辺敬夫市長に言って、了承を得た。ただ、事務所の場所は職員が探した。企業の事務所跡で駐車場が広かったのが魅力だった」

 ―いわきに移転して間もない4月22日に避難区域の再編があったが、その情報は得ていたのか。
 「いつ頃だったかは分からないが、(広野が)避難指示解除区域になるだろうということを報道からの情報で聞いていたと思う。政府からの話はなかった」

 ―その時、第2原発の避難指示の範囲が半径10キロから8キロに縮小された。
 「私が頼んだ。この話は墓に持っていくつもりだったが。(避難指示の範囲が)警戒区域になることは分かっていた。第2原発から10キロとなると、工業団地とか(広野)火力(発電所)も入り、町はどうにもならなくなる。町が区分されるのも好きではなかった」
 「広野を何とかして早く復興に持っていきたかった。なぜかというと、双葉の南の玄関口の広野が戻らなかったら、双葉8町村の復興はないと思ったからだ。『楢葉と広野の境にすんのが本当だっぺ。なんで10キロなんだ』と、そういう話をした。(相談していた政府原子力災害現地対策本部長の)松下(忠洋経済産業)副大臣(当時)がやってくれたと思う」

 ―その判断は広野の復興に影響したと思うか。
 「これを(当時の住民に)言えば反対されたと思う。賠償金がもらえないと。私は銭金の問題ではないと思っていた。もし警戒区域を外さなかったら、がれき置き場を(町の北東部に)設置できず、町内のあちこちに分散してがれきを置くことになっただろう。工業団地からも企業が出ていったかもしれない。町が早く復興できたのは間違いない」

 ―町の復興に何から取り組んだのか。
 「積算放射線量が年間20ミリシーベルト以下であれば、世界的な基準で大丈夫だろうという知識はあったが、口には出さなかった。とにかく町の様子を見に行こうとなった時に『若いのは行くな』と言った。すると、課長らが『自分らで調べてくる』と言って、班をつくって調べてくれた」

 ―政府からの支援はあったのか。
 「丸投げもいいとこだ。向こうから提案されるようなことは全くなかった。松下さんが来る時、局長とか官僚を20人も連れてきたんだが何も言わない。『こんなに連れてきたってどうにもなんないよ』と文句を言ったら、松下さんが『俺は怒られても構わない。おまえら(官僚)はなぜ黙っているのか』と怒ったことがあった」

 「帰還宣言」せず抜け駆けやっちゃならないと

 ―9月末ごろには原発から20~30キロの広野の避難指示が解除されたが、そのころは何をしていたか。
 「公的な場所などを最初に手入れしようとしていた。道路や水道などの応急措置も進めていた」
 「学校再開のために空調の交換や除染で1億円かかることになった。ある国会議員が『金は後から付いてくる』というので進めたら、官僚に『金は出せない』と言われたこともあった」

 ―解除に際して、徹底して除染した上で解除するのが筋だと主張していた。
 「除染でもいろいろとあった。環境省から『除染する時は町と相談します』と言われたが、その翌日には県外の企業が来ると伝えてきた。抗議すると『決まりましたから』と電話を切られた。公的な施設しか除染しなかった。後に、地元出身の社員がいる企業が住宅などを担当してくれたが、こちらの企業は地元の要望を聞いてくれて良かった」

 ―12年3月1日に広野に役場機能を戻した経緯は。
 「町議会の全員協議会で『早く戻したい』という話をして了解を得た。役場が先に戻らずに町民を戻そうとしても無理だ。近くにいれば町民が困っていることも見える。早く戻ろうという声は職員からも出ており、3月1日に帰ることにした」

 ―この時、11年3月に町長が独自に出した避難指示を解除していないが。
 「解除していない。この段階では『取りあえず帰れる人から帰って』ということだった。地震で壊れた家屋の解体や上下水道の復旧などが進んだことを確認し、3月31日に独自の避難指示を解除した」

 ―「帰還宣言」はしなかったのか。
 「してないよ。なぜかというと、(双葉郡の)8町村は一つという考えでやってきたから。非常時にどこかが抜け駆けするなんてことはやっちゃならないと思っていたから。東日本大震災と原発事故から間もなく10年になるが、現在の双葉郡の首長にも、双葉8町村が一つになって、支援策の継続などについて政府と向き合うことを求めたい」