【証言あの時】元復興相・平野達男氏 原発周辺に「緩衝地帯」

 
平野達男元復興相

 「それは駄目だろう。おかしいじゃないか」。民主党政権の内閣府副大臣として東日本大震災の津波被災者の支援に取り組んでいた平野達男は耳を疑った。2011(平成23)年の発災当初、東京電力福島第1原発事故により避難した福島県民を支援する政府の担当部署はなかったのだ。同僚議員の指摘でその事実に気付いた平野は、急ぎチームをつくり、原子力災害の被災者支援を始めた。

 パートナーになったのは、経済産業副大臣として本県の被災地を歩いていた松下忠洋(12年に死去)だった。松下は政府に戻る度、首長から聞いた現場の苦境を平野に切々と訴えた。平野は松下の言葉に動かされるように本県との関わりを深め、11年7月に復興対策担当相に就任する。この頃、平野がひそかに心血を注いだのは原発事故の財物賠償の基準づくりだった。

 被災地を巡る中、平野は「賠償が進まないと話にならない」と感じた。経済産業省の官僚と膝詰めで議論した。平野は「正直に言えば所管外。経産省に賠償のノウハウがなく、自分には農林水産省勤務時に身に付けた知識があった。原発事故当事者の東電に任せるわけにはいかず、政府の責任で取り組んだ」と当時の心境を語る。議論の成果はその後、政府の賠償紛争審査会に引き継がれたという。

 12年2月、政府は復興政策の司令塔として復興庁を設置し、平野は初代の復興相となった。平野にはどうしても忘れられない出来事があった。大熊町を視察中、一時帰宅していた住民と会った。住民は自宅を指さし「あそこに帰ることができると思いますか」と真剣な口調で訴えた。廃炉作業中の原発のすぐそばに帰れと言うことは、本当に被災者のためになるのか―。平野は深く自問した。

 平野は同年4月、第1原発周辺の一部地域を人の立ち入りや居住を制限する政府管理の「緩衝地帯」とする考えを打ち出す。平野は原発から半径10キロ程度を国有化し、廃炉作業中の万が一の事故などに対応する考えだった。住民が帰還できない地域をつくる平野の構想は波紋を呼んだ。「閣内で賛成する人はいない案だった。だが、住民のための帰還とは何かを考えた発想だった」と振り返った。

 しばらくして緩衝地帯の議論は立ち消えとなり、平野も政権交代で12月に復興相を退任する。しかし、皮肉にも原発周辺の「帰還できない地域」は、中間貯蔵施設という形で実現してしまうことになる。

 平野は、民主党政権の復興政策について「復興するための準備をしただけだった。自分を褒めるようにあえて言えば、復興へのレールを敷いた。だけど、(実際の復興は)全て残してしまったな」と語った。(敬称略)

 【平野達男元復興相インタビュー】

 初代復興相を務めた平野達男氏(66)=岩手県=に、旧民主党政権の東日本大震災や東京電力福島第1原発事故への初期対応などについて聞いた。

 福島支援の体制がない それは駄目だ、おかしい

 ―2011(平成23)年3月11日はどこにいたのか。
 「内閣府副大臣だったので、官邸向かい側の建物にいた。夜になり、当時の福山哲郎官房副長官から『岩手県に行ってくれ』と電話があった。翌12日に自衛隊ヘリで岩手に向かった」
 「岩手に着いた時は夕方だった。パイロットに頼み込み、陸前高田市の状況を空から見たが、町はなかった。あの時の衝撃は言葉にできない。本当は現地にいて活動したかったが、東京都に戻るように言われ、津波被災者の支援チームを担当することになった」

 ―チームの業務は。
 「北海道から千葉県までの津波被災地に、食料など必要な物資を届ける仕事だった。初めは官邸の地下にいたが、携帯電話が通じないので出ることにした。官僚に場所を探させたら『晴海にあります』と言う。『霞が関を出たら仕事にならないだろう』と言って、内閣府の講堂に拠点をつくらせた」
 「時期は覚えていないが、首相補佐官だった辻元清美氏が来て『平野さんね、被災者って津波地域だけじゃない。福島の原発事故も被災者がいるんですよ』と言ってきた。『原子力関係の本部で(支援を)やっているのでしょう』と聞くと、やっていないという。確認すると窓口や体制が全くない。『それは駄目だ、おかしいじゃないか』と言って、チームを別につくり、対応することにした。本当に大反省すべきことだった」

 ―本県への支援に向けてどのように動いたのか。
 「郡山市のビッグパレットふくしまなどを巡った。当時は、経済産業副大臣の松下忠洋氏(12年に死去)が福島に張り付いていたからよく話を聞いた。松下氏は、首長さんと涙を流しながら語り合った現地の状況などを伝えてくれた。飯舘村で計画的避難区域になることの説明会を開く時には、松下さんから『ぜひ来てくれ』と言われて一緒に行った」

 将来重荷となる計画に交付金を付けるな

 ―11年7月に復興対策担当相に就任した時の状況は。
 「前任の松本龍氏(18年に死去)が、多忙で疲れてしまっていたので就任した。防災担当相も兼務していた。その頃、福島について一番首を突っ込んでいたのは土地などの(財物関係の)賠償。私の所管外だが、しっかりやらないとならないと思い、経産省の職員と基本的な考え方を議論していた」

 ―賠償の議論をすることは誰かに指示されたのか。
 「指示はない。福島を歩けば当然賠償はどうなるんだという話になっていた。経産省には賠償のノウハウがなく、自分には農林水産省に勤務していた時のダム水没などの賠償の知識があった。当事者の東電には任せられない。強制避難を指示した政府の責任として取り組んだ。議論は原子力損害賠償紛争審査会のベースになったと思う」

 ―12年2月に復興庁が発足し、初代の復興相に就任するが。
 「それまでも復興特区や復興増税などの法案などに関わっていたから、自分の中で仕事の内容は変わらなかった。ただ、復興対策担当相の時は防災担当相を兼務していたので、午前は防災、午後は復興のような形だった。非常に忙しく、だから私は復興構想会議にほとんど出ていなかったんだ」

 ―発足当時の復興庁の雰囲気はどのようなものか。
 「各省庁から人が集まっていたが、当時は、みんな『何かやらないと』という危機感が共有されていた気がする。官僚が知恵を出し、自分がそれを後押ししたこともあった。仕切りは岡本全勝氏(後の福島復興再生総局事務局長)に全て任せていた」

 ―復興事業をどのように進めていったのか。
 「被災地では、高台移転などの事業費の地元負担をゼロにした。正確に言えば地元負担の枠は残しておき、それを特別交付税で政府が国費で負担するという仕組みにした。誰の発案か覚えていないが、復興を進めるために導入した。ただ、被災地のモラルハザード(倫理観の欠如)は心配していた」
 「東日本大震災は人口減少下で発生した初の大災害だ。でも、そのような考えで復興を考える自治体はない。立派な復興にしようと、すごい構想が持ち込まれた。気持ちは分かるが、将来重荷になるような余計なものはつくらないよう『生煮えの計画に復興交付金を付けるな』と指示していた」
 「方針を徹底したものだから、1回目の復興交付金は結構(交付申請を)落とした。村井嘉浩宮城県知事からは『復興庁ではなく査定庁だ』と言われた。だが、官僚には『言われるぐらいが一番仕事をしている証拠だ』と言った。あの時、バランスを取れるのは復興庁しかなかった」

 ―本県にもさまざまな協議会への出席などで訪れていたが、印象的な首長はいたか。
 「彼自身に全く責任はないのだが、浪江町の馬場有町長(18年に死去)は、放射線量が高い地域に住民を避難させてしまったことを晩年まで悔いていた。賠償問題や(放射性物質の拡散を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムの)SPEEDI問題の追及など、それが原動力になっていたと思う」
 「(当時の)佐藤雄平知事は精神的に非常につらかったはずだ。途中で倒れてしまうのではないかと思った。困難な状況の中で、県として主張すべきところは相当きつい言葉で総理にもばんばん言っていたのを覚えている」

 ―中間貯蔵施設の議論に関わっていたのか。
 「タッチしていない。県に設置を打診する方針は、原発事故担当相だった細野豪志氏と仙谷由人氏(18年に死去)が水面下でまとめていた。細野氏とは(復興関係で)しょっちゅう話をしていたが、中間貯蔵施設を持っていく方針は突然聞かされ、びっくりした」

 復興予算19兆円の枠組み、あまり根拠ない

 ―在任中に原発周辺に緩衝地帯を設ける構想を打ち出したが、その背景は。
 「忘れられない出来事があった。大熊町の、原発に非常に近い所を視察していた時、一時帰宅の住民と会った。近くの家を指さして『あそこに帰ることができると思いますか。私は帰れるとは思えない』と言われた。あの段階で、あの場所に帰れというのは酷だと思った。帰還の旗を振っている中で『帰れない』と言うのは政治的に非常に難しかった。苦し紛れというか、出てきたのが緩衝地帯の発想だった」
 「私は原発から半径10キロで線を引き、そこを緩衝地帯として政府が全て買い取ることを考えていた。閣内で賛成する人はいなかったし、佐藤知事からも電話で怒られた。たたかれてもいいと思って発言したが、結局結論は出なかった」
 「その後、細野氏と中間貯蔵施設の話をした時に『結果的に住めない地域の所と重なることになってしまったな』と雑談で話した気がするけどね」

 ―当時は「仮の町」構想もあった。
 「『仮の町』は、厳密には定義されておらず、言葉だけが走ってしまったという感じがした。(当時の)双葉町の井戸川克隆町長は、全町民が移り住めるまちづくりをしたいという考えだった。民間の団体による構想も動いていた。政府としては、帰還するまでどのように生活してもらうか、という視点で(避難先に)復興公営住宅を造るというような意味だった」

 ―12年7月に、最初の福島復興再生基本方針ができた。当時はどのような議論をしていたのか。
 「津波被災地では高台移転というコンセプトがあったが、福島の場合は『帰りましょう』という言葉しか出てこなかったという感じだ。研究所をつくるとか、再生可能エネルギーを推進するとか、いろいろな話をしたが、具体的なところまでいける状況になかった」
 「話はさかのぼるが、(11~15年度の5年間の)復興予算19兆円の枠組みをつくったが、19兆円にはあまり根拠がない。だって復興計画がまだないんだから。航空写真を使って被害額を推計して『えいや』で出した。復興増税をお願いする中で、(対策の規模を)出さなければならない事情もあった」

 ―そのような中、復興予算の流用問題もあった。
 「さまざま批判はあったが、次の災害に備える防災事業と、被災地のサプライチェーン(部品の調達・供給網)を守るための事業については、国会でも議論して与野党間で合意していた。しかし、その他に財務省が何も言わずに復興予算に入れていた関係ない事業があった。これは言い訳できない。国会答弁は全部私がやった」

 ―12年12月に退任するが、本県復興で残された課題は何だったか。
 「復興するための準備をしただけだった。自分を褒めるためあえて言えば、復興のレールを敷いたが、後は全部残してしまった。民主党政権下では、自治体の復興計画の策定と事業の積み上げまでは時期的にできなかった」

 ―間もなく震災から丸10年になる。今行うべきことは。
 「被災者一人一人に帰還するか、避難先にとどまるか、しばらく待つのかを改めて聞き取る必要がある。その上で意向を反映した新たなまちづくりの姿を示していくことが求められる。それができて初めて、被災者にとっての復興の始まりになるのではないか」