【証言あの時】元国家戦略担当相・玄葉光一郎氏 50キロの秘密計画

 
玄葉光一郎元国家戦略担当相

 「東京電力福島第1原発事故の最悪のシナリオを想定し、原発から半径50キロの避難計画を準備していた」。2011(平成23)年3月11日の原発事故当時、民主党政権の国家戦略担当相だった玄葉光一郎は、少数の政府要人にしか知らされていなかった秘密の計画について語りだした。

 核燃料の冷却機能を失った第1原発。原子炉建屋は相次いで水素爆発し、社会は危機一色に染まった。

 3月15日午前の閣議後、玄葉は原子力委員会委員長を務めていた近藤駿介を大臣室に呼んだ。今後想定される最悪の事態とは何か―を聞くためだった。近藤は「一番心配なのは、4号機の使用済み燃料プールです」と即答した。

 東日本大震災の発生時、4号機は定期検査中で、全ての核燃料は建物上部の「使用済み燃料プール」に集められていた。その数は約1500体。プールから冷却用の水が失われたり、余震でプールが崩壊したりすれば、核燃料が溶け出して大量の放射性物質が放出される。

 極めて高い線量により作業員は1~3号機にも近づくことができなくなり、原発は完全に暴走する。最悪の場合、東日本全てで人が住めなくなる。近藤が語るシナリオに、玄葉は愕然(がくぜん)とした。当時、避難指示は原発から半径20キロに出されていた。「どのぐらいの避難が必要か」と聞くと、近藤は「詳細な計算をしてみる」と言って帰った。

 「大規模な避難に備え、(住民が)移動するためのガソリンを供給しておく必要がある」と危機感を感じた玄葉は、15日のうちに官邸に働き掛け、本県へのガソリンの緊急供給の段取りを始めた。近藤が、計算結果を玄葉に報告したのは16日。「使用済み燃料プールの水が本当になくなれば、半径50キロの避難が必要になります」

 玄葉は、当時の知事の佐藤雄平にこの想定を伝えた。佐藤は「50キロまで避難させたら、福島県がなくなる」と驚きの声を上げたという。玄葉は「非常時には(半径50キロの避難を)発動するしかない。命を守るのが最優先だ」と、言わざるを得なかった。

 幸い、プール内に水があることが確認され、最悪の事態は免れた。しかし、困ったことが起きた。玄葉が手配したタンクローリーの車列が郡山市で止まった。運転手が「これ以上は嫌だ」と帰ってしまったのだ。被災自治体の職員が出向き、ガソリンを地元まで運ぶ事態に陥った。

 「物流が止まっても住民避難は必要」と考えた玄葉は、しばらく50キロの避難計画を手放すことができなかったという。玄葉の手元に「住民避難のあり方」と書かれた当時の書類が残る。「混乱をできる限り回避しながら(50キロ)圏内全員の他県への避難を行う」。本県の存続は、まさに紙一重だった。(敬称略)

 【玄葉光一郎元国家戦略担当相インタビュー】

 東京電力福島第1原発事故当時、国家戦略担当相を務めていた玄葉光一郎氏(56)に、原発事故の「最悪のシナリオ」や初期の復興政策の決定過程などについて聞いた。

 水素爆発の恐れ班目氏は否定、数時間後に1号機が

 ―2011(平成23)年3月11日の東日本大震災発生時、どこにいたのか。
 「参議院の決算委員会が開かれており、委員室の閣僚席にいた。しばらくして内閣府の大臣室に戻った。午後3時10分ごろ、全閣僚が参集するように指示されたので官邸に向かった」
 「最初の緊急災害対策本部会議は、官邸地下の危機管理センターで開かれた。入ったのは初めてで、職員でごった返し、緊迫した空気だった。この部屋は携帯電話が通じなかったので、次の会議から官邸4階に場所を移した」

 ―政府の原子力災害対策本部の議事録によれば、12日昼からの会議で「メルトダウンの可能性がある」と発言している。情報源があったのか。
 「国家戦略室の職員の中に、原発に詳しい2人の参事官がいた。彼らをそばに置き、11日夕方から『これから何が起きるのか、考えられることを全て言ってくれ』と言って情報収集していたので、そのような発言ができた」
 「記録には残っていないが、その会議では、私は『原発が水素爆発するのではないか』とも指摘した。十分起こり得ると考えていた。首相の菅直人氏は『それはないだろう。そうだよな、班目』と言った。当時の原子力安全委員会委員長の班目春樹氏がポンッと立ち上がって『ありません』と言った。しかし、その数時間後に1号機が爆発した」

 ―原発事故対応は、国家戦略担当相が所管する役割だったのか。
 「守備範囲ではないが、自分は地元選出の議員だ。会議でも『僕は地元だから言うね』と言って、自分のチームが想定したことなどを発言していた」
 「ただ、状況は良くならなかった。そこで3月15日午前の閣議後に『これは最悪の事態を考える必要がある』と思い、当時の原子力委員会委員長の近藤駿介氏を大臣室に呼び出した。近藤氏に『これから何が起きるか』と聞くと『一番心配なのは4号機の使用済み燃料プールだ』と答えた」
 「使用済み燃料は、崩壊熱が高いからプールに(核燃料を冷却するための)水がないと大変なことだ。仮に水がなくなれば(燃料が溶けだして)4号機に人が近づけなくなり、当然1号機から3号機にも近づけなくなる。『どのぐらいの避難が必要か。僕は半径50キロは必要と思う』と言うと、『コンピューターをまわさないと分からない』と答え近藤氏は帰った。16日夜に回答を持ってきた」

 ―回答の内容は。
 「最悪の場合(大量の放射性物質が放出されて)東日本全体が駄目になるというものだった。ただ、それまでには時間がかかるので、すぐに避難指示範囲の拡大は必要ない。しかし、プールの水がなくなった場合には半径50キロの避難が必要というものだった」

 ―最悪のシナリオを知りどのように動いたのか。
 「回答が得られる前の15日夕方から、避難に備え第1原発から20~50キロ圏内にガソリンを供給するよう官邸の危機管理室に働き掛けた。彼らはもう手いっぱいだったので、自分で手配することにした。所管外だったが、自分が『最後の砦(とりで)』になろうとした。もし責任が問われるなら職を辞する覚悟だった」

 タンクローリーの運転手郡山から帰ってしまった

 ―ガソリンの準備で障害はあったのか。
 「経済産業省の担当者は『玄葉さんは地元のことばっかり。全国いろいろあるのに』という反応だ。確かに地元も含まれているが、そういう問題ではない。官邸に行って菅氏に『最悪の事態があり得る。ガソリンがなくて逃げられなかったら人災だ』と訴えた」
 「菅氏は『どうしたらいい』と言うので『この場で経済産業大臣と担当者に電話し、玄葉の指示に従えと言ってくれ』と頼んだ。その通りになり、タンクローリーの車列が電話から6時間後(の16日早朝)には郡山市に着いた」
 「タンクローリーが動きだす時、職員から『所有者が原発事故の地域に行ったら使い物にならなくなるのでどうしてくれると言っています』と報告を受けた。『責任は俺が取る。全て買い上げると言え』と言って動かした」

 ―半径50キロの避難が必要になる最悪のシナリオを知っていたのは政府内の誰か。
 「僕が言ったのは官房長官の枝野幸男氏と官房副長官の福山哲郎氏。当時の危機管理監にも説明し、避難の受け入れ先を手配するよう頼んでいた。菅氏にはガソリン調達の時に言ったはずだ」

 ―当時の知事の佐藤雄平氏には言っていたのか。
 「伝えた。佐藤氏は『50キロまで避難させたら福島県がなくなる』と言った。安易に発動してくれるなという感じだったので、僕は『気持ちは分かるけど、最悪の事態になったら命を守るのが最優先だ。それは発動になる』と言った」

 ―半径50キロの避難が発動されなかった理由は。
 「幸い、17日未明ごろに4号機の使用済み燃料プールに水のあることを確認できたからだ。米国は、水はないと分析し(日本にいる)国民を半径80キロまで避難させていた。ただ、それだけでは安心できなかった。(4号機の原子炉建屋は水素爆発していたので)余震で崩れる可能性もあったからだ」
 「タンクローリーを郡山まで運んだが、そこから運転手が怖がって帰ってしまった。(被災地の)物流がストップするようなことがあれば住民避難は必要だと考え、50キロの避難計画をなかなか手放せなかった。(使わなくて良いと)安心したのは4月ごろだと思う。それまでは、地元に帰ることができなかった」

 復興課題素早い解決のため大連立を模索

 ―最悪のシナリオについては、当時の首相補佐官だった細野豪志氏が近藤氏に依頼して3月25日にできたものが知られているが。
 「同じ内容だ。細野氏が作ったものが正式な政府としての最悪のシナリオ。近藤氏が15日の私の依頼で作ったデータを加工し、分かりやすくしたものと聞いている。25日ごろには、(4号機使用済み燃料プールの)本当の危機は去っていた」

 ―当時は民主党の政調会長も兼務しており、野党と協議しながら初期の復興政策を決めたと聞いている。
 「当時、民主党は衆議院では多数だったが、参議院は自民党や公明党などの野党が多い『ねじれ』の状態だった。復興の課題をスピーディーに解決していくために最初に考えたのは、与野党による大連立だった」
 「当時の自民党政調会長の石破茂氏とも『やるなら時限的だ』と話していた。私たちは本気だった。しかし、総理の菅氏と当時の自民党総裁の谷垣禎一氏の間の個人的な信頼関係が薄かったので、大連立は成立しなかった。それで、野党の協力を得ながら復興政策を決めていくことになった」

 ―与野党の方向性はおおむね一致していたのか。
 「大きなところで方向性は同じだったが、要所では各党それぞれの主張を出してきた。復旧事業を盛り込んだ11年度の1次補正予算と、被災地の二重ローン対策を盛り込んだ2次補正予算はすんなり議論が進んだが、3次補正については、本格的な復興に向けた財源論も絡んで大きな議論になった」
 「(11~15年度の5年間の19兆円の復興予算を)全て国債で賄うのは、借金を次世代に回すことになるので断念した。消費税の形で財源を確保する案もあったが、最終的には国民全てで分かち合うこととし、所得税に復興税を上乗せする形に落ち着いた」
 「ただ、本来の歳出削減による財源確保の努力も必要とされ、野党からは民主党の看板政策の断念を求められた。子ども手当などの見直しは、民主党に帰ると裏切り者呼ばわりされ、本当に苦労した」

 ―復興庁創設の議論についてはどうだったのか。
 「政府内、特に首相の菅氏は、さまざまな事業の実施権限を持たない総合調整組織としての復興庁の創設を考えていた。しかし、野党は実施権限を持った役所とする方が良いとの考えだった。自分としては、福島の復興のために強力な復興庁が必要と考えていた」

 ―どのように調整したのか。
 「菅氏には途中『2段階にしましょう』と言ったことがある。総合調整機能として発足し、後に権限を持つ役所にする案だ。しかし、それでは時間がかかる。(最終的には)申し訳ないが野党の存在を利用する形で『(野党に配慮しないと)法案が通りません』と言って説得した。菅氏は(強力な復興庁をつくる方向で)のんでくれた」

 ―11年8月に本県に打診した中間貯蔵設置の議論には関わっていたのか。
 「知事の佐藤氏と話した覚えはあまりない。5月ごろになると、副知事だった内堀雅雄氏が定期的に来て、重要局面での県の方針を伝えてくるようになった。『優先順位はこれで良いのね、県民は両方の意見があると思うけど』『いや、こっちでお願いします』というような話をして政府につなげていた。その時に話したかもしれない」

 ―間もなく震災から丸10年、本県に求められることは。
 「復興が最優先ではあるが、それだけではない政治の目標と戦略、方針が示され、県民が手を携えて進む時期ではないか。復興だけという段階からは卒業しなければいけないと思う」