【証言あの時・番外編】故冨塚宥暻田村市長 みな家族、分断せず

 
緊急時避難準備区域を巡る対応が示された住民説明会でマイクを握る冨塚氏。右は橋本氏=2011年4月30日、田村市・旧春山小

 「都路全域を避難させることについてどう思う」。田村市長だった冨塚宥暻(ゆうけい)は、傍らにいた副市長の橋本隆憲に語り掛けた。人の出入りが多かった市の災害対策本部だが、この時、冨塚のそばには橋本しかいなかった。これは質問ではない、覚悟だ―。そう感じた橋本は「市長の判断が正しいと思います」と返した。

 2011(平成23)年3月12日、東京電力福島第1原発事故が悪化する中、政府は原発から半径20キロに避難指示を出した。田村市では都路地区の一部が該当した。しかし、政府からは何の連絡もなく、市は独自に決断を迫られていた。冨塚は、都路地区の全住民を避難させる道を選んだ。

 距離で区別はせず

 田村市は船引、常葉、滝根、大越、都路の5町村による「平成の大合併」で誕生した。初代市長の冨塚は「市民はみな家族」を合言葉に、市内の融和に心を砕いていた。橋本は「非常時だったが、地域コミュニティーを分断する決断は取れるはずもなかった」と、冨塚の心境を思いやる。

 都路地区はその頃、すでに隣接する大熊町の避難を受け入れていた。大熊町民の再避難と、都路住民の避難が進められた。3月15日には原発から20~30キロ圏内に屋内退避指示が出されたが、冨塚はこの時も、一概に距離で区別することなく地区単位での指定を判断した。

 冨塚は「政府方針が報道を通じて伝えられるのはおかしい」と、憤りを感じていたという。そんな中で4月21日、当時の首相の菅直人が田村市の避難所を視察する。「市長は短気な性格だ。どうなるのか」と、橋本は2人が衝突することを危惧したが、事態は思いがけない方向に進んだ。

 首相に強く求めた

 菅と向き合った冨塚は何かを訴えている。しかし、その声は、すぐ後ろにいた橋本にも聞こえなかった。冨塚は静かに、強く、政府の救済策の実施を求めていた。会談後、冨塚は報道陣に「この時期の訪問に頭にきている」と語った。

 その後、冨塚と橋本は、警戒区域となった都路の避難指示解除に向け、地区の再生に心血を注ぐ。

 対応がひとまず落ち着いた12年11月、2人は東京都に出張した。帰りは夜で、JR中央線に乗った。窓の外に煌々(こうこう)と輝く街並みが流れる。橋本は思わず冨塚に問い掛けた。

 「私たちは通学路に何とか街灯をつけてくれと市民から要望されていますよね。東京のこの昼のような明かりはなんですか。電気は福島から運ばれていたんじゃないですか。安全というなら、原発は東京の近くに造れば良かったのに」

 冨塚は「そうだな」と返し、自らも感じていることを語り出したという。なぜ原発が、なぜ福島が、なぜ田村が。多くの「なぜ」を抱えたまま、冨塚と東京の夜景を見ながら語り合ったことを、橋本は今も覚えている。冨塚は退任後の18年10月、鬼籍に入った。(文中敬称略)

 【当時の状況を聞く】橋本氏、今泉

 東日本大震災の発生当時、田村市副市長だった橋本隆憲氏(69)と、同市都路行政局長だった今泉清司氏(70)に、市の初期対応や市長だった故冨塚氏の思いなどを聞いた。

 元田村副市長・橋本隆憲氏 全域避難「市長は腹くくっているんだな」。即座に「いい」

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時、どこにいたのか。
 「市役所本庁の市長室で打ち合わせ中に、激しい揺れを感じた。一度駐車場に避難し、すぐに対策本部を設けた。その後は本部に詰めっきりで、なかなか動けなかったのが現状だった」

 ―市の記録によれば12日朝に大熊町から避難受け入れの要請を受けたとある。
 「要請を誰が受けたのか記憶にないが、冨塚氏は後に『正式に受け入れの依頼があったのは、大熊だけだった』と語っていた。対策本部を開き、避難者を都路地区などで引き受けることを決めた。しかし、12日夜には、その都路の住民が避難することになった」

 ―政府が福島第1原発から半径20キロ圏内に避難指示を出したことだと思うが、実際は都路の一部にかかる範囲だった。
 「避難指示はテレビで知り、どのように避難してもらうかを判断しなければならなかった。災害対策本部で、冨塚氏のそばに私しかいない時に『都路を全地域避難させることについてどう思う』と聞かれた。長い付き合いなので、腹をくくった上で聞いてるんだなと理解した。即座に『それでいいと思います』と答えた」
 「半径20キロで単純に線を引いたら、内側の人は問答無用で避難になり、すれすれの外側の人には残ってくれということになる。冨塚氏は合併した田村市の初代市長で『市民は家族』と言ってきた。この線引きで都路の地域コミュニティーが分断されることが耐えられなかったのだと思う」
 「後に半径20~30キロに屋内退避指示が出た時にも、単純な線引きではなく地区単位で決めた」

 ―都路からの避難を市内で受け入れた後、4月21日に当時の菅直人首相が視察に来たと思うが。
 「冨塚氏は、原発事故当初に政府から連絡がなかったことに怒っていた。会談に一緒にいるように言われ、『市長は短気なところがあるからな』と思っていた。ところが、冨塚氏は静かにしゃべり、後ろにいる私にも聞こえなかった」
 「(菅首相の)視察先は大熊町民が避難している場所だった。冨塚氏は会談後、報道陣に『うちの市民は(田村市船引の旧)春山小(の避難所)にいるんだから、そっちにも来てほしかった』と言っていた」

 ―13年6月の副市長退任まで、都路の原発から20~30キロ圏の避難指示解除、20キロ圏内の避難指示解除準備区域への再編に立ち合ったが、どのような感覚で取り組んでいたのか。
 「私も冨塚氏も、なぜ悪いことをしていない市民がこんな目に遭うのかと思っていた。区域見直しなどでは正直、『見直しありき』という政府の姿勢に違和感を覚えることもあった」
 「しかし、先に進まないと戻りたくても戻れない人が出る、戻りたいという気持ちも薄らいでいくだろうと考え、さまざまな整備を進めた。冨塚氏は地域の分断が起きないようにと、悩んでいたはずだ」

 ―震災対応などで冨塚氏との思い出はあるか。
 「原発事故からしばらくたったころだったか。観光大使との懇談会があり、冨塚氏と東京都の中野サンプラザに行った。帰りは夜になり、JR中央線で東京駅に戻る時、窓の外が明るいんですよね。そこで私は言ってしまった」
 「市長、私たちは通学路が暗いからといって『何とか街路灯を建ててほしい』との要望を受けていますよね。こっちは夜でも昼のように明るい。この電気、全部うちの方から来ていたんですよね。原発は安全というなら、なぜ東京湾近辺などに造らず、双葉郡に造ったのですかね」

 ―冨塚氏はどう答えたのか。
 「『そうだな』と言っていた。『なんか、納得できないよな』って、2人で中央線で話したことを覚えている。だからやはり、最後に行き着くのは、国策というのは一体何だったのかな、という思いだ」

 元都路行政局長・今泉清司氏 市長「全域避難」、住民は「俺たちは帰れないのか」と思った

 ―震災発生時はどこにいたのか。
 「三春町への出張の途中で地震があり、急いで都路行政局に戻った。船引にある本庁舎の災害対策本部に出た後、再び都路に戻って管内の被害状況を確認した。一部道路を通行止めにしたが、大きな被害はなく、けが人もいなかった」
 「11日夜は行政局で仮眠したが、自衛隊の車両やトラック、大型バスなどが国道288号を大熊町方面に向かってどんどん降りていく(向かっていく)のを見た。何か異常なことが起きていると感じた」

 ―12日朝に大熊町民の避難を受け入れたのか。
 「朝7時すぎに本庁から受け入れを指示する電話があった。都路体育館などで準備を始めたが、(午前)7時30分には大熊町民が大型バスやマイカーで到着した。都路だけでは収容しきれず常葉や船引にある施設に向かってもらった」
 「市民の協力で炊き出しをした。消防団には大熊から来る車の誘導を頼んだ。すると、午後になり警察や自衛隊の車がこちらに来た。団員に『逃げろ』と言ったようだが、何のことか分からなかった。後に、それが午後3時すぎの(福島第1原発)1号機の水素爆発を警告していたものと分かった」

 ―12日夕に原発から半径20キロに避難指示が出る。
 「都路は一部だけが20キロにかかっていた。だが、午後8時前に冨塚氏から電話があり『都路を分断するわけにはいかない。全域避難させろ』と指示を受けた。防災無線で住民に周知し、スクールバスなどで船引方面に避難した。私も行政局に鍵を掛け、船引中の避難所に向かった」
 「この時、本人や親族が東京電力関連の仕事に携わっていた人は、すでに原発事故の情報を得ていて自家用車で会津地方や新潟県まで避難していたようだ」

 ―避難後の状況は。
 「最初はばらばらに避難していたが、まだ操業していなかったデンソー東日本(デンソー福島)の工場に集まった。ここでは田村に避難していた大熊町民と共同生活を送った。その後、都路の住民は学校統廃合で空いていた旧春山小に移った。行政区ごとに教室に分かれて生活した」

 ―4月22日に都路の原発から半径20キロ圏内が警戒区域に、それ以外が緊急時避難準備区域となったが。
 「住民は20キロ内外を問わずに『俺たちはもう帰れないのか』と思っていた。警戒区域の範囲は政府が主導して決め、消防分署の近くにゲートを置くことになった。自分としては、都路全部をエリアにしてもらえればよかったな、という思いはあったが」

 ―本来は11年3月末で定年退職だったと聞いている。
 「5月末まで延長になって、行政局の業務復旧などにめどを付けて退職した。しばらくすると、市の社会福祉協議会から『仮設住宅ができるから(見回りなどを行う)生活相談支援員をやってくれないか』と話があった。都路の住民の顔と名前はだいたい分かっていたので引き受けた」

 ―避難が長期化する中で住民に変化はあったか。
「先に20~30キロの避難指示が解除された。一方、20キロ圏内はまだ解除されなかったので、賠償が続いていた。先に解除された地区の住民から『まだもらえんのか』などと言われ、トラブルになることもあった」
 「20キロ圏内の避難指示解除までは時間がかかった。市の中心部に避難したことで、買い物施設や医療機関に近い環境に慣れ『帰りたくない』という人が出た。集会のたび『準備しなくちゃならないよ』と呼び掛け、意識改革してもらった」

 ―今は都路で人が集まることができる食堂を営み、今年3月末までは行政区長も務めた。地元から見た震災10年を経た課題は何か。
 「人口は9割戻ったが、若い人が少なくなった。高齢世帯が多いので、その人たちを元気づけるための対策を考える必要がある」