【続・証言あの時】広野町長・遠藤智氏 「見知らぬ町」に安心を

 
えんどう・さとし 広野町出身。東京経済大経営学部卒。東京電力の関連会社に勤務しながら、2007年4月から広野町議を務めた。13年に関連会社を退職、町議を辞職した後、同年11月の町長選に出馬し初当選した。現在3期目。原発事故による避難指示が解除された後の町復興に取り組む。21年8月から双葉地方町村会長、県町村会長を務める。経済協力開発機構(OECD)の国際連携組織「チャンピオン・メイヤーズ」の一員。61歳。

 「あの時、広野は住民にとって見知らぬ町になっていました」。2013(平成25)年12月に広野町長となった遠藤智(61)は、当時を振り返った。東京電力福島第1原発事故後、比較的早い段階の11年9月に避難指示が解除された町は、原発事故の収束作業に向かう企業の前線基地のような状況だった。

 町内には県外ナンバーの車両が数多く行き交い、作業員の宿舎が乱立していた。帰還した町民が約800人いたのに対し、町内に滞在する作業員は約4000人。ごみ出しのルールが守られないなどのトラブルが相次ぎ、事故前の穏やかな暮らしが失われたことは住民帰還を妨げる要因の一つだった。

 町民に戻ってもらえるような環境を整えるには一体どうすればいいのか。遠藤は思い悩んだ。ノウハウがあると期待していた政府の派遣職員からも「どうすればいいんですかね」との声が上がる。遠藤は「とにかく動くしかない」と心を定め、まずは暮らしの安心感を取り戻そうと考えた。

 「安心・安全ネットワーク会議をつくるので出席してください」。遠藤は、事故収束に取り組む企業の事務所を歩いた。町民と企業が直接話し、課題を解決する場を設けることが狙いだった。「マナーの悪さが復興を進める上で問題です」と直言する遠藤に、企業の担当者は「ご迷惑をかけています」と出席を快諾した。

 さらに遠藤は、東電に会議の副会長就任を要請した。事故当事者への風当たりは、現在の比ではなかった。東電は了承したが、遠藤は彼らの戸惑いを感じたという。「東電には廃炉と復興に覚悟を持って取り組んでほしかった。副会長打診はその意味を込めた」と決断の背景を語った。

 遠藤をトップにした会議の初会合は、14年10月に開かれた。会議や事故防止の街頭活動などを通じて住民と企業の間に一定の信頼関係が生まれ、作業員の生活マナーの改善も進んだ。15年3月、点在していた作業員宿舎の集約を図る基本計画をまとめ、16年には議会で無秩序な建設を制限する条例を制定した。町は落ち着きを取り戻していった。

 公設民営によるスーパー誘致やインフラ復旧などを同時並行で進め、住民の帰還率が約9割となったのは震災から7年半後の18年9月だった。遠藤はこの機に合わせ、町独自の指標「みなし居住率」を公表する。

 町内に住む町民や作業員の人数を合わせ、住民基本台帳の登録人口で割った数値だ。初回の算定で、住基人口の1.5倍の人が生活していることが分かった。「多くの人を受け入れ共生する、新たな町の姿を示したかった」。遠藤の口調には、苦闘の日々の思いがにじんでいた。(文中敬称略)

 【遠藤智広野町長インタビュー】

 広野町長の遠藤智氏(61)に、地域社会の再生や他自治体との賠償格差解消に向けた取り組みなどを聞いた。

 作業員のマナーの悪さに苦情「子どもが安心できるように」

 ―町長に就任した2013(平成25)年12月当時の町の状況はどうだったか。
 「東京電力福島第1原発から30キロ圏内の広野町は、事故により緊急時避難準備区域となったが、11年9月30日には避難指示が解除された。しかし町民の多くはいわき市など県内外で避難を続けており、帰還者は約800人だった」
 「一方で、広野より北の地域の避難指示は解除されておらず、町内には廃炉に従事する企業の事務所が乱立し、3000~4000人の作業員が集まっていた。道路には県外ナンバーの車が数多く走り、町民にとって『見知らぬ町』になっているような状況だった」

 ―どのように感じたか。
 「切なく悲しい思いだった。帰還した町民からは、作業員のマナーの悪さが苦情として寄せられ、子育て世帯からは『子どもが安心できるようにして』という声も上がっていた」
 「この問題も含め課題は多く、町民に帰還してもらうにはどうしたらいいのか、誰も分からなかった。政府から来ている職員も『どうしたらいいですかね』と言っていた。とにかく、自分で行動を起こしていくしかないと考えた」

 ―どう動いたのか。
 「町民の代表と企業が同じテーブルで話し合い、状況を打開する場として安心・安全ネットワーク会議をつくろうと考え、町内のゼネコン各社の事務所を歩いた。『作業員のマナー(の悪さ)に苦情が出ており、町民の生活がなし得ない。復興する上で問題だ』と正直に言うと、各社とも『ご迷惑をおかけしています』と即座に参加を受け入れてくれた」
 「会議の会長は町長の私が務めることにし、副会長には東電から就任してもらうよう打診した」

 ―事故当事者の東電に対する町民の見方は厳しかったのではないのか。
 「そうだった。しかし事故を起こした東電に責務と覚悟を持って取り組んでもらうため、是が非でも参加してもらうつもりだった。東電は了承したが、彼らに『入ってよいのか』という戸惑いがあるのを感じた」

 ―初会合が14年10月に開かれた。会議をしたことでどのような変化があったか。
 「住民と企業との間の空気が変わった。住民はごみ出しのルールを守ってもらうことなどを訴え、状況は改善していった。意見がぶつかるようなことはなかった」
 「会議を重ねて理解と協力が得られたことで、後の作業員宿舎の集約計画の策定や、宿舎を建築する際に町が申請を確認する条例づくりにつながった。安心・安全ネットワークの活動は、今も続いている」

 「賠償格差ある理由示してほしい」それが町民の本心だった

 ―広野町のように比較的早い段階で避難指示が解除された旧緊急時避難準備区域では、他の避難指示に分類された自治体との、いわゆる賠償格差が課題になっていたと記憶している。
 「事故で同じ避難をしているのに(月額10万円の精神的賠償の打ち切り時期など)なぜ格差があるのかと。親戚や知人らが他の自治体にいるから、自然と分かってしまう。町民の思いは『必要でないものまで下さい』というのではなく、格差がある理由を示してほしいというものだった。これが本心だ」

 ―政府などから説明はなかったのか。
 「説明はあったが、それは単なる賠償制度がそうなっているという説明であって、画一的だった。町民が求める、格差が生じている理由については全く説明がなかった。それでは町民は納得できない」
 「賠償は、制度が決まっていて動かない。でも町民の言っていることも分かる。苦しい立場だった。現場の町としては何か(賠償格差を埋めるような)代案や新たな制度設計ができないか、何度となく政府や県と協議した」

 ―具体的にどのように解消を目指したのか。
 「広野の賠償を巡っては避難指示解除後、11カ月間だけ精神的賠償が支払われた。しかしその後に賠償指針が改められ、支払期間は解除から1年となった経緯があった。まずこの1カ月分の差を埋めるため、町独自の財源で、町民1人当たり10万円の生活再建の給付金を配ろうと考えた」
 「財源として町の財政調整基金から5億円を使おうとしたが、それだけ取り崩した事例は(過去に)なかった。『基金を積み立てた先人は許してくれるだろうか』と夜の役場で何度も一人思い悩んだが、町民の意見などを聞く中で、必要なものだと覚悟した。ある意味、政治生命を懸けて16年の5月臨時町議会に提案し、何とか実現することができた」

 ―その他、どのような取り組みをしたのか。
 「町民1人当たり10万円の地域振興券を配ることに加え、額面1万5000円分を1万円で販売するプレミアム付き商品券を販売することにした。それぞれ県の交付金を財源として実行したが、広野はその枠組みづくりを成し遂げることができた。この制度は被災地域全体に広がった」
 「さらに、当時行われていた高速道路無料化と医療・介護保険料などの減免を、震災から10年、政府に継続してもらうことをセットにして町民の理解を求めた」
 「各種制度の延長については、旧緊急時避難準備区域で同じ悩みを抱えていた南相馬市と田村市、川内村と連携して要望した」

 ―賠償指針の改正で、他の自治体では避難指示解除の時期にかかわらず、18年3月まで精神的賠償が支払われる状況になっていた。これらの施策で、町民から理解は得られたのか。
 「町として覚悟を持ってできたのは、そこまでだった。納得できない部分はあったにせよ、町民に受け止めていただいた。一定の理解は得られたと思う」
 「16年3月に、イオン広野店などが出店した公設民営の商業施設『ひろのてらす』をオープンさせることができた。交渉や財源確保は大いに苦労したが、震災から5年でようやく買い物環境が整ったこともあり、前に進んでいく雰囲気になった」

 独自の「みなし居住率」町の姿、明確に表現するため公表した

 ―被災自治体の復興の状況は、住民基本台帳に登録された人口に対する、帰還してきた町民数の割合である「帰還率」で表現されることが多い。広野町は帰還率が9割を達成したことに合わせ、18年に独自の指標「みなし居住率」を公表したが、背景にはどのような地域事情があったのか。
 「みなし居住率は、居住する町民の人数と廃炉作業などで町内に滞在している人の数を合わせ、住民基本台帳の人口で割ったものだ。広野の姿を明確に表現するため、算定して公表することにした。名称についてはどう正確に表現するか悩んだ」
 「平たく言うと、広野では帰還した町民と作業員ら滞在者が共生している。しかし共生という言葉も、みなし居住率を公表する前の17年ごろにようやく使うことができた。帰還が十分に進まない時期に共生を掲げても、町民の納得が得られないと考えていた」

 ―経済協力開発機構(OECD)の格差是正や経済成長について議論する国際連携組織「チャンピオン・メイヤーズ」の一員に選ばれた。どのような経緯だったのか。
 「復興支援に来てくれた元官僚の縁で、復興の状況を発信する国際フォーラムを町内で開いていた。フォーラムに集まった国内外の研究者らの意見を踏まえ、『幸せな帰町』という町のスローガンもできた。その中でOECDとも関係を持つようになった」
 「OECDの幹部から打診された時、『こんな5000人の町がいいんでしょうか』と言った。当時、日本のメンバーは都知事や横浜市長ら5人しかいなかった。内堀雅雄知事に相談したら『受けたらよいでしょう』と言ってくれたので、福島の復興をOECDを通して発信できるならと引き受けることにした」

 ―震災と原発事故から間もなく11年6カ月になろうとしている。復興に取り組んできた首長として伝えたいことはあるか。
 「復興にはさまざまな課題があるが、愛する古里のために立場が違う人とでも理解し、信頼し合えば、時間をかけて必ずなし得ることができる、乗り越えられるということだ。これまでの被災地の歩みに多くの支援をしてくれた方々に、感謝と御礼を述べたい」