【続・証言あの時】元富岡町長・宮本皓一氏 指定廃棄物...覚悟の決断

 
みやもと・こういち 富岡町出身。小高農高卒。2000(平成12)年に富岡町議に初当選し、4期。震災後の12年4月からは町議会議長。町議を辞し、13年7月の町長選に出馬し初当選した。21年8月に任期満了で勇退するまで2期務めた。17年4月には、帰還困難区域を除く町の大部分の避難指示解除を実現した。双葉郡で唯一となる独自の震災記録施設「とみおかアーカイブ・ミュージアム」の設立にも尽力。現在は富岡町土地改良区の理事長を務める。75歳。

 「福島の復興を遅らせないため、原発で恩恵を受けてきた富岡が覚悟しなければならないと考えた」。元富岡町長の宮本皓一(75)は、東京電力福島第1原発事故を巡り、放射性物質を含む廃棄物の管理型処分場設置を町が受け入れた経緯を語り始めた。

 宮本が町長に就任したのは、事故から2年後の2013(平成25)年8月のことだった。町は帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に区分され、誰も帰還することができない状況だった。その当時、政府は原発事故からの環境回復に向け、飛散した放射性物質の集約場所をつくろうとしていた。

 大熊、双葉両町には、除染の廃棄物を保管する中間貯蔵施設の建設を打診した。富岡町には、1キロ当たり8000ベクレル以上10万ベクレル以下の放射性物質を含む下水汚泥などの指定廃棄物の保管場所の設置を求めた。課題が山積する富岡に、さらなる難題が突き付けられた。

 候補地は、町南部にある民間の産廃埋め立て処分場だった。処分場への搬入路は隣の楢葉町にあった。宮本は「引き受けるにしても、未来永劫(えいごう)管理が必要になる。一体誰が見る。処分場を国有化し、その責任を示してほしい」と訴えた。だが政府は耳を貸そうとしなかった。

 宮本は大熊町長だった渡辺利綱や双葉町長の伊沢史朗、楢葉町長の松本幸英、副知事だった内堀雅雄らと共に、政府や与党との交渉に当たった。首長同士でも集まり、その中で「福島第1、第2原発の立地町がそれぞれ引き受けざるを得ないだろうという話になったんです」と明かした。

 処分場の話が動き始めるのは、中間貯蔵施設の設置を県と大熊、双葉両町が容認した後の15年6月だった。頑(かたく)なだった政府が一転して国有化することを認め、地域振興策として自由度の高い交付金を創設することを表明した。宮本は「国が折れたっていう感じだったよね。こっちは譲らなかった」と振り返る。

 宮本は、町政懇談会などで「富岡も役目を果たさなければ」と訴えた。ある会場では「大熊と双葉に中間貯蔵施設ができて、町の南の玄関口に処分場ができて、誰が富岡に帰るんだ」との声が上がった。

 その夜、宮本は床に就いても眠ることができなかった。「自分は施設を引き受けたことを、ずっと引きずっていくのだろう」。そう考えていた。しかし、15年12月に受け入れ方針を決定した後は、一つの苦情もなかったという。「町民は分かってくれていたんだと思う」。宮本は町民の信任を背に迷うことなく復興を進め、17年4月に帰還困難区域を除く町の避難指示解除を実現した。(敬称略)

 【宮本皓一元富岡町長インタビュー】

 元富岡町長の宮本皓一氏(75)に、帰還困難区域を除く富岡町の大部分が避難指示解除されるまでの経緯などを聞いた。

 施設受け入れ、ずっと引きずるのかと思っていた

 ―2013(平成25)年8月に町長に就任した際、どのような状況だったか。
 「避難先で町民の生活をどう安定させるかということに重きが置かれていて、町内のインフラ復旧は計画段階だった。最初に着手したのは第2次災害復興計画づくり。町民30人を公募し、町の係長クラスの若手と町の将来を考えてもらうことにした」

 ―13年12月、政府から改めて放射性物質を含む廃棄物の保管場所として、町南部の産廃処分場を使うことを打診された。どのように受け止めたか。
 「町議会の全員協議会などで意見を聞いた。引き受けるにしても、未来永劫(えいごう)管理しなければならないものだ。そんなの誰が見るんだという話になった。そこで、政府に責任を持ってもらおうと(民有地の処分場の)国有化を提言した」

 ―政府の反応は。
 「副大臣クラスに伝えると、政府に持ち帰って向こうで協議してまた来るという繰り返し。だいぶ時間が過ぎてしまっていた」
 「大熊町と双葉町に中間貯蔵施設、富岡町には管理型処分場の設置が政府から打診された。処分場への搬入路は楢葉町側にあった。大熊町の渡辺利綱町長(当時)と双葉町の伊沢史朗町長、私、楢葉町の松本幸英町長、そして内堀雅雄副知事(同)を交えて政府や与党と話していた」
 「東京電力福島第1原発は大熊町と双葉町、第2原発は富岡町と楢葉町にある。これまで(原発の)恩恵を受けてきたことを考えれば覚悟しなければならないという、決意的なものがあったね」

 ―国有化の議論は長く平行線だった。しかし県と大熊、双葉両町が中間貯蔵施設の建設を受け入れた後の15年6月、政府は一転して国有化を認め、併せて地域振興のために自由度の高い交付金を創設することも表明する。この間に何があったのか。
 「いつまでも決着がつかないから、国の方が折れたという感じだったね。こっちは譲らなかった」

 ―政府との交渉役を務めていた内堀氏は、14年11月に知事に就任した。この時期に内堀氏の役割を引き継いでいたのは誰だったか。
 「鈴木正晃副知事だ」

 ―管理型処分場についてどのように説明したのか。
 「県の復興を先に進めるためには避けて通れない。中間貯蔵施設は大熊町と双葉町が引き受けた。今度は第2原発が立地していた富岡町と楢葉町が責任を持つのはやむを得ないと言ったら、議会は納得してくれた」
 「住民にはさまざまな考えがあり、ある町政懇談会では『中間貯蔵が北にできて、南の玄関口に処分場ができたら、町民の誰が帰るんだ』と言われた。その夜はなかなか寝られなかった」
 「しかし2度、3度と(懇談会を)開き、交付金のことなども説明した。いろいろと調整し(15年12月に受け入れて)いいだろうとなった後は、苦情や意見が一つも出なかった」

 ―どのように感じたか。
 「自分は施設を引き受けて、これからずっと引きずっていかなくちゃならないのかと思っていた。でも、そうではなかった。最後には納得してくれた」

 ―交付金は最終的に県が100億円を準備し、富岡町に60億円、楢葉町に40億円を交付した。これは町側から訴えた制度だったのか。
 「県の方から話があった。県内の廃棄物を1カ所にまとめるわけだから。ただ、自由度が高いといっても縛りが多かったので、少し緩和してもらったな」

 政府、避難解除前倒し提案 インフラ整わず「無理」

 ―まちづくりについて聞きたい。町長就任時に着手した第2次災害復興計画が15年6月に策定される。そこでは帰町の時期を17年4月としたが、その理由は。
 「居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示を解除するため、上下水道や道路などを復旧させるには実際にどのくらいかかるかを計算した。それで17年4月と決めた」

 ―インフラ復旧を進め16年3月からは住民の特例宿泊、同年9月からは準備宿泊が始まった。この頃はどういう状況だったのか。
 「私は、友人の家を借りて特例宿泊と準備宿泊をした。将来帰還する町民を迎えるため、いわき市や郡山市の役場事務所に勤務する人を除き、職員にはみんな富岡町に帰ってきてもらった。住む家がなく、住宅メーカーに頼んで(職員の住む場所を)つくってもらった。あの頃はまだ、本当に誰もいなくて寂しさもあった」
 「買い物環境を整えようと、町内でスーパーを運営していた会社に再開を求めたが、難しいとの答えだった。そこで町が店舗と駐車場を買い、新たな商業施設として整備することにした。震災前、町内で営業していたツルハドラッグとダイユーエイトが入ることになった。ヨークベニマルも『復興のお手伝いをします』と申し出てくれた」

 ―町が17年4月の帰還を目指す中、政府は16年10月に「17年1月」の避難指示解除を提案してきた。議会などの反対で、政府は提案を取り下げ、17年1月に「17年4月」の解除を打診してきた。これは何だったのか。
 「背景に、このような話があった。(当時の)自民党東日本大震災復興加速化本部長の大島理森氏から呼ばれ、『これまで準備してきたのだから前倒しできるだろう』と言われた。大島氏は少しでも早い解除が、住民の帰還につながると考えていた」
 「実際の工期を考えてみると、それは難しいことだった。しかし私は『努力してみます』と答えて帰ってきた。社交辞令的な話だよ。戻って職員や議会と話をして、やはり無理だとなった。それを大島氏に伝えると『俺と約束したじゃないか』と言われたな」
 「私は住宅と診療所、生鮮食品が買える場所を整えない限り、避難指示は解除しないと決めていた。公営住宅を戸建てで50戸整備し診療所のめども立った。16年11月には、整備していた複合商業施設『さくらモールとみおか』が一部オープンしたが、ヨークベニマルの出店はまだだった」

 ―整備が終わらなければ受け入れないという覚悟で政府と協議し、4月1日の避難指示解除となったのか。
 「その時だって『浪江町と同じ3月31日の解除ではどうか』と言われた。政府は、帰還困難区域以外を16年度末(=17年3月31日)までに避難指示解除するという方針だったから。だけど、私は頑として聞かなかった」
 「実際にさくらモールとみおかにヨークベニマルが入店し、完全にオープンすることができたのは3月30日だった。解除後に町内で祭りなどの行事が復活するのを見た時は、涙が出るほどうれしかった」

 文化財救出、アーカイブ施設のきっかけ

 ―時間は戻るが14年7月から、役場内に歴史・文化等保存プロジェクトチームが動き出す。町の記録によると多くの歴史資料が守られたとあるがどのような状況だったのか。
 「富岡町には古い家が多く、解体せざるを得ない割合も高かった。名主だった家を解体する際、神棚から風呂敷が見つかった。家主は中身が分からないので神社に預けた。後から調べると過去の地区の物流を細かに記録した文書が入っていた。住宅の解体が進めば、このような大事な文化財が失われてしまうかもしれないとなり、救出を始めた」
 「その結果、家主も存在を知らなかった資料などを3万5000点集めることができた。白河市にある(県文化財センター白河館の)まほろんに保管され、福島大などの協力を得て整理が進められた」

 ―それは、町独自に整備するアーカイブ施設に関係してくるのか。
 「そうだ。町の歴史を伝えていくため、保存の検討委員会をつくり、施設の建設につながった」
 「伝承施設といえば、かつて東電の第2原発のPR館だったところに、東電の廃炉資料館がある。あれを造れと言ったのは私だ」

 ―どういうことか。
 「15歳以下は第1原発に入ることができない。原発が今どういう状況か、なぜ大きな事故になったのか。それらを知ることができるような施設に造り替えてくれと、10回も口説いた。東電は事故そのものをあまりPRしたくなかったようだが、『実現します』ということになった」

 ―町は帰還困難区域を巡り、夜の森地区を中心に特定復興再生拠点区域(復興拠点)の範囲を定め、先行解除する計画をつくるが、その経緯は。
 「帰還困難区域の中で、3000人の住民がいた夜の森地区を外すわけにはいかなかった。政府からは(計画の範囲を)『国道6号でぴったり切れ』とかいろいろ言われた。帰還困難区域内の除染は政府のお金でやると決めたことに、一つの問題があったと思う」
 「帰還困難区域を一括して解除できないというのは、国がそういう理屈にしているだけで、やろうとすればできるわけだから」

 ―震災から11年半が過ぎたが、伝えたいことは。
 「全てにおいて普通の生活ができるようになるということが、真の復興だと思う。だけど今も森林とか除染していないところがある。国には一日も早く取り組んでもらいたい」