「完全な復興はない」 行政の“復興”お仕着せに距離感も
避難してから初めて戻った富岡町の家は、ネズミに荒らされ、床が抜けた場所もあった。富岡駅は津波で流されて、なかった。泣きたくなったのを8カ月たった今も覚えている。
詩に付け加えた言葉
いわき市に避難する磐城桜が丘高2年桑原真子(16)はこの時、3月の県追悼式で発表された詩の構想を既に固めていた。「何の前触れもなく 唐突に思うことがある 『帰りたい』って 何ということのない 日常だったけれども それでも 楽しい毎日だった」。訪れた故郷の姿に「帰りたい」との思いは正直揺らいだ。だから、こう付け加えた。「これからできることは いつまでも ふるさとを思い続けること ただ それだけ」
「帰れない」との思いは時とともに強くなる。「道路や施設が復旧しても、戻らない人がいれば、それは完全な復興ではないし、自分が知っている富岡でもない」。一方で「いつかは帰る」という気持ちも簡単には消えない。「いつか富岡の役に立ちたい。それがたとえ元の富岡でなくても」
大熊町出身の福島大4年高橋恵子(21)は今、大学院進学を考えている。学芸員として大熊の文化財を保護するためだ。祖父らの炭焼きが町の重要な文化だったと大学で知り、その思いは強くなった。
広がる「感覚のずれ」
そんな高橋に周囲は「若い復興の担い手」のイメージをつい投影する。「でも復興という言葉は好きじゃない」と高橋は言う。「行政の決める『復興』にはゴールがあるけど、『こうなったら復興だ』と勝手に決められたくない。震災、原発事故を忘れることはないし、私は福島が好きだから、そこに向き合っていくだけ」。前向きな言葉に照れたのか、高橋は少し笑った。
震災、原発事故から間もなく3年4カ月。賠償などをめぐる避難者同士のあつれきや健康への考え方の違い、福島第1原発の廃炉現場でのトラブルを抱えながら、国など行政は「復興」を進めているが、住民の感覚とのずれはこの3年余で明らかに広がっている。故郷と切り離された若者らは、お仕着せの「復興」ともまた距離を感じ始めている。(文中敬称略)=「今を問う」おわり
(2014年7月9日 福島民友ニュース)
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