2015語り継ぐ戦争 海軍で航空機の整備兵 生死紙一重の毎日

 
遠藤  敬さん 93 (富岡町)

原発事故で避難生活を送りながら、「若い人たちに戦争の悲惨さを知ってほしい」と話す遠藤さん

 ◆遠藤  敬さん 93 (富岡町)

 見送った若い特攻隊員たちが零戦に乗り込んでいく姿が忘れられない。東京電力福島第1原発事故に伴い、郡山市の借り上げアパートで避難生活を送る富岡町の遠藤敬さん(93)は、フィリピンのミンダナオ島ダバオでの戦争体験を思い出すと胸が痛む。「生と死が紙一重の毎日だった。多くの隊員たちが戦死した」と言葉をかみ締める。

 浪江町の青年学校を卒業後、就職した茨城県の会社が海軍の兵器組み立て工場だった。1942(昭和17)年、志願して海軍に入り、航空機の整備兵として教育訓練を受けた。

 無我夢中で防空壕に  

 ダバオの第1航空基地小型戦闘機隊に配属された44年、同基地は、兵力で圧倒する米軍の連日の空襲にさらされていた。

 「青空が暗くなるほど何十機もの爆撃機が上空を覆った」。同基地の任務に就いて間もない夏、昼食中に見上げた上空から大量の爆弾が降り注いだ。無我夢中で防空壕(ごう)に飛び込んだ。

 米軍機が去った後、風景は一変した。一帯が焦土と化し、数多くの隊員の無残な遺体があった。「信じられないほどの惨状だった」と険しい表情で振り返る。

 毎日続く米軍機の空爆、隊員を狙い撃ちする容赦ない機銃掃射、沖合の米軍艦隊からの艦砲射撃、物資不足の中で隊員を襲うマラリア。「心身に異常をきたす隊員も増え、地獄だった」と、当時の極限状態を打ち明ける。

 ダバオで終戦を迎えた当時、「絶対に戦争を繰り返してはならない」と誓った思いは、戦争体験者が高齢化する中で一層強いものになった。

 「悲惨さ知って」  

 「特攻隊員たちは、みんな若かった。『国のため』と、戦地で命を落とした多くの人たちを忘れてはならない。戦争を過去のこととせずに、若い人に戦争の悲惨さを知ってもらいたい」。次世代の人たちに託そうとする願いは切実だ。