【清流あらかわフォーカス<11>】変わる橋、変わらぬ重み

 
信夫橋時代を超えて荒川と人々の歩みを見つめてきた信夫橋。左奥は阿武隈川(石井裕貴撮影)

 荒川の最下流部に架かるのが信夫橋だ。かつて奥州街道や明治天皇の東北歴訪でも利用されたこの橋は江戸時代には福島城下町の玄関口の役割を担った。現在も中心市街地に向かう南の玄関口。古今を通じて福島を代表する橋として知られている。

 「昔から、人や物を運ぶだけではなく、文化や地域を結び付ける重要な橋だった。だからこそ荒川の洪水で何度流されても、途絶えることなく再建されてきた」。市史編纂(へんさん)室元職員の柴田俊彰さん(73)=福島市=が歴史をひも解いてくれた。

 1874(明治7)年に初代の信夫橋が完成してから現在で4代目。それまでは舟で往来したり、中州の間に板を敷き、渡るたびに音がすることから幕末には「ガンタラ橋」と呼ばれていたこともあった。初代の木の橋は当時県内で最も長い橋で、全長は約194メートル、幅は約7.2メートルだった。東京の日本橋に似た美しい橋だったことから話題にもなったが、83年秋に大洪水で落橋。再建は県令三島通庸(みちつね)が命じた。

 「川を渡った北岸の柳町は商店が並び、福島で最も栄えた繁華街だった。橋は商売人や旅人はもちろん、地元住民の生活道でもあり、暮らしに欠かせない橋だった」と柴田さん。13連のアーチで構成される近代的な石造りの2代目「めがね橋」は85年に架けられた。洪水による流失によりわずか6年の短命だったが、三島と関係が深い洋画家の高橋由一が橋を克明に描写するなど凝ったデザインの橋は市民の自慢だった。

 3代目の橋を挟み、4代目は再び7連のアーチ橋となった。その後、車道の両側に歩道橋を増設。橋の両端には歴史を感じさせる重厚な親柱を見ることができる。

 時代や橋の形状は変わっても、きょうも人々は荒川を渡る。通勤通学、あるいは散歩道として。さまざまな思いをつなぎ続ける橋の重みは変わらない。(石井裕貴)

信夫橋の地図
 信夫橋 県道水原福島線に架かる鉄筋コンクリートアーチの橋。全長185メートル、幅11メートル。近くには阿武隈川との合流点がある。現在の4代目は1932(昭和7)年12月に完成した。戦時中、橋の金属は全て政府に供出されたが52年、宮城、山形を含む第7回国体を機に復元。その後、車の通行量が増加し歩道橋も備えた。3代目の設計は県内初の県会議事堂の設計技師とされる県技術職員の江川三郎八が関わり、木と鉄の混合橋になった。

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