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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  甦る古代の金堂  ー
 
 会津仏教文化の礎築く

 会津は仏教文化の宝庫である。国宝に指定されている湯川村勝常寺の薬師三尊像、会津美里町龍興寺の一字蓮台法華経をはじめ、各所に屈指の文化財を遺(のこ)す。ここ数年は、宗派を超えて、さらには観光面でも「仏都」を冠したイベントや旅行、冊子が数多く企画され、集客に一役買っている。これまではとかく幕末史が注目されがちであった会津にあって、今後は神社仏閣が以前にも増して誘客の目玉になっていくことは必至であろう。

 「そもそも寺社は観光の対象ではない」と憤慨なさる方もいるやも知れぬ。誤解を招く恐れがあるのであえて触れるが、「観光」の本来の語義は「よその土地の文化・制度・風景などをよく見る」ことであって、お土産付きの物見遊山は本意ではない。会津仏教文化をより多くの人々に伝えるために、迎える側の体制づくりも急務である。

 そのような中、南都出身の碩学(せきがく)僧徳一によって開創され、会津仏教文化の礎を築いた磐梯町の慧日寺跡では、史跡整備事業の一環として金堂の復元工事が始まっている。国指定史跡における中心建物の復元としては全国初の事例として、2005(平成17)年度から3カ年の継続事業で実施しており、本年度末に完成予定だ。

 寺院建築はもとより、古代仏堂の復元を目の当たりにすることは、現代に生きる我々(われわれ)にとってそう経験できるものではない。今回幸いなことに、文化財の整備を通して、そうした稀有(けう)な事例に関わる機会に恵まれた。紙面をお借りして、来年3月の竣工(しゅんこう)に向け着々と進む復元の経過を、建築技法ともどもお伝えできれば幸いである。時々に、慧日寺にまつわるさまざまな歴史・文化財などにも触れ、1200年にも及ぶ慧日寺悠久の歴史の一端も併せて紹介していこうと思う。

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 金堂は本尊を安置する寺院の中心建物で、慧日寺跡の場合は、発掘調査によって桁(けた)行き7間、梁間4間の規模であることが分かった。寸法は、桁行き総間が53尺(約15.9メートル)、梁(はり)間が30尺(約9メートル)。奈良・京都の大寺院に見る金堂と比較すると小規模ではあるが、いわゆる五間四面堂として格式を持たせ、中央間は丈六の薬師仏を安置するために広くしている。地盤は、質の異なる土を層状に積んで叩き締めて造成した版築(はんちく)の基壇(きだん)である。この版築は、中枢伽藍(がらん)の他の建物跡には見られない基礎地業であり、このことからも中心的な建物、すなわち金堂跡であることが裏付けられる。

 また、基壇北側の一部には建物跡に平行するように安山岩の立石が東西に並んで残っており、これによって、基壇外周には高さ1尺5寸ほどの外装石が東西19.5メートル、南北12.6メートル規模で回っていたことも判明した。さらに、版築土の下には金堂建立に際しての整地土が広がっており、そこからは九世紀前半代の土器が出土している。

 このように建物跡の年代や平面規模などは、発掘調査の成果によって知ることができるが、そこに建っていた建物については、絵図面や設計図、写真(もちろんありえない)が残っていない限り、実は詳細な形や構造は分からない。そこで参考にされるのが、今に残る同時代の建物である。残念ながら会津地方には古代まで遡(さかのぼ)る寺院建築は現存しておらず、全国的にもちょうど同年代の金堂建築はないという。

 建立年代の近い奈良県の室生寺などを参照に検討を重ね、古社寺建築史の研究成果を援用しながら、積雪山間部という立地も考慮して設計にあたった。完成後は、期せずして古代寺院建築史上の空白を埋める貴重な建造物となる。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 1 】

磐梯山のふもとに開創され、会津仏教文化の礎を築いた慧日寺跡

復元工事が始まった金堂(中央素屋根内)

【2007年4月11日付】
 

 

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