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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  建物復元への挑戦  ー
 
 奥が深い古代の建築技法

 復元金堂の主な仕様を、検討のポイントとともに紹介しよう。

 屋根 形式は寄せ棟造りか、入り母屋造りか判明していないが、徳一の出身である南都寺院には寄せ棟造りの仏堂が多いこと、会津地方でも、現存する中世建築に寄せ棟造りが多いことなどから、寄せ棟造りを採用した。

 葺(ふ)き材については、発掘調査において瓦が一片も出土しておらず、植物質の材料で葺かれていたと推定される。ところが、一概に植物質といってもさまざまな種類がある。

 檜皮(ひわだ)については、土地柄からみて材料の入手が困難であったろうし、茅葺(かやぶ)きは現在会津地方の寺社建築に多く見られるものの、もともとはこけら葺きや板葺きであったことが古建築史の視点から指摘されている。

 近世以前、地方における山間部の建物の多くが、厚めの板を用いる「とち葺き」であったことを参照し、復元金堂でもとち葺きを採用することとした。

 組物 建物の軒を飾る複雑な形をした組物は、丸桁(がぎょう)を持ち上げたり、前方へ持ち出したりするとともに、屋根の荷重を分散して柱に伝える役割を果たす。

 さまざまな形があり、通常は格の高い建物ほど複雑な形式が採られるため、南都寺院などの金堂では、三手先という技法を用いて軒の出を大きくするのが普通である。

 しかし、積雪荷重を考えた場合、会津地方の山間部にはそぐわない。とすると、金堂であっても軒先を柱筋から持ち出さない組物であった可能性が高く、慧日寺金堂では「平三斗」という技法を採用した。

  発掘調査では床面に石・磚敷(せんじ)きおよび土間叩(たた)きの跡は見つかっていない。基壇面においても、正面側と背面側とに高低差が認められ、石・磚敷きや土間叩きにすると床が傾斜することになって具合が悪い。

 時代は下るが、恵日寺に残る「絹本(けんぽん)著色(ちゃくしょく)恵日寺絵図」(県重文)をみると、各建物とも柱下から少し上がった位置に長押(なげし)が描かれていて、板床張りを表現したものと考えられる。冬季の積雪や厳しい寒さを考慮すると、板床を張るのはむしろ当然だったのであろう。

 なお、縁については発掘調査でその痕跡が確認されておらず、「絵図」にも描かれていないので、設置しないこととした。

 以上のように、建物各部の構造手法は土地柄に合わせた設計であり、中央の寺院や国分寺などとは違った独特の建物形式であったと推定される。

 こうして大まかな仕様ができると、今度は実際の設計図に取り掛かる。しかし、寺院建物が醸し出す優美なプロポーション(例えば屋根の勾配(こうばい)や軒反りなど)は、実は縮小図面である設計図ではなかなか表現することが困難だという。

 建物全体のバランスから導き出される微妙な寸法の大小や部材の形状を、より具体的に確認するには、原寸大の図面での検討が必要となるのである。当然のごとく、相当の広さが必要になり、「原寸場」と呼ばれる専用のスペースが設けられる。

 その中で設計図を照らし合わせながら、一つ一つの部材の反りや張り、大きさや厚さなどを細かく調整していくのである。その作業を終えて、ようやく部材切り出しの原型となる型板が切り取られる段階を迎えることになるのだ。

 以上、金堂復元に際しての取り掛かりの工程を紹介したが、実は奈良・平安時代には寺社の造営に際して、全体配置図などは描いたものの、個々の建物の立面図や断面図は引かなかったらしい。

 ではどうしたか。まず縮小模型である雛型(ひながた)(様・本様、木型ともいう)を作り、各部材はその相似形をもって切り出したという。したがって、古代寺院建築の細部技法は解体修理などで初めて分かることも多く、現代の匠(たくみ)をもってしてもなかなか奥が深い。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 2 】

検討結果をもとにして描かれた金堂の復元計画図

原寸図の調査作業

【2007年4月18日付】
 

 

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